アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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言葉を語る日本の最優秀の知性人たちの昭和群像――言葉の経験について――ものを考えると云うこと アリアドネ・アーカイブスより

 
 こういう地味な文章を
初回の一日に、
一度に47名もの方の眼に
触れることができたことを
感謝いたしております。
20016・9・21
 
 
 ものを考えるとはどういうことを意味するでしょうか。思惟する、と言えば普通に考えることです。恣意的に考えると云えば、良い意味では使われていません。それなら、洞察する、というのはどうでしょうか。洞察するとは、経験に頼らなくても人間には人間である限り、先験的に人間として固有に考える固有の能力がある、という意味です。固有に考える固有の能力とは、例えば、――人を殺めてはならない、などがそうです。親や兄弟に教えられなくても、他なる人の薫陶や教育というシステム過程を経なくても自ずから備わっている、という意味です。フランスの人権宣言やアメリカの独立宣言、さらには日本国憲法のなかにはそうした、理念の言葉で語る、という意味合いの響きが強く感じられます。これを空疎であると考える向きもありますが、――この類の人はたいてい自分のことをリアリストだと信じているのですが――理念の言葉で考えると云うことはとても大事なことなのです。
 人は、単にものを考えると云っても、様々なレベルで、ひとがものを考える!という行為は成立しているのです。思惟する、恣意的にものを考える、空想する、あるいは客観的に且つ科学的に考える、洞察する、という認識の静態的なあり方のなかに於いてだけではなくて、西田哲学風に共感すると云う営為を通じて思考的「動態」のなかで行為的直観として考えるなど、様々な水準での考え方があります。これらの違いを踏まえて考えると云う行為の成り立つレベルを考えてみる、と云うことがとても大事なことだと思います。
 
 わたくしがこういうことを考えるようになったのは、戦前の小林秀雄から江藤淳吉本隆明、さらには昨今の柄谷行人などに見られるわが国文芸批評系の知識人に固有の考え方のパターンと云うものがあって、それをとても面白く感じたのです。
 小林秀雄の啖呵の利いた歯切れの良い文章には素晴らしいものがあります。文献や資料に頼らずに、或いは権威や伝聞に頼らずに、自らの経験のみを頼りにしてものを考えると云う姿勢が一貫していてとても共感を感じます。欧米に追従し、如何に先駆的に物真似を他に先んじて演ずるかということをもって事足れりとする見慣れた生活習慣のなかに置いて観ずるときに、等しく国破れたものの眼には力強いメッセージとして受け取られたことは間違いのないことでしょう。一時期彼は、川端康成と並んで、日本人の誉れの様なものでした。
 しかし一転して距離を置いて冷静に考えてみると殆ど内容がなくて軽薄だと感じさせる場面すらあります。その理由は彼が自分でも云うように経験と自意識以外の手がかりと云うものを持たないからなのです。批評家としての質のどうこうと云うのではなく、狭苦しさを感じるのです。人間の思考の奥行きと云うものを考えるときに、やはりこれは特殊なあり方だと考えないわけにはいきません。普通の、普遍的な人間のあり方とは少し違うのです。あえて言えばこの特殊に狭苦しい感じは、日本人に固有の狭苦しさ、堅苦しさ、思惟の自由度の不在と関係がありそうなのです。
 この狭くるしさは江藤淳などの場合になると、彼の中期以降の愛国主義と結びついて一層顕著に、偏狭とでも言ってでもいいほどの思想の極端な偏りを感じさせます。吉本隆明の場合は彼の既成左翼嫌いが災いして、ウルトラ左翼とでも云うようなものに形を変じて新左翼運動や市民運動と一部結びつき、彼の体質でもある愛憎半ばするアンビバレンスは、結果的にその言動はリベラルなのか反動なのか分からなくさせます。柄谷行人の場合は先行する御三方にある政治色なり潜在的政治性に対して禁欲的であろうと云う姿勢が卓越してきて、それが隠された彼の政治性の隠喩、あるいは無意識の表明になっているところに特色があります。
 小林以下の御三方の思想的経歴を大雑把に通観して感ずることの言葉のキーワードは、「観念的」という言葉ではないかと思います。戦前の小林秀雄が、例えば『様々な意匠』でやり玉に挙げたのは左翼を含む日本知識人の現実を見ない観念性でした。それが戦後の吉本隆明江藤淳になるとそれが自覚的な方法論へと変容し、戦後史の思潮の一世を風靡した進歩的文化人と呼ばれた人々に於ける観念肥大症に対する苛烈な非難となって現れます、左翼であろうと右翼であろうとに関わりのない通底する知的エリートとしての体質、彼らの能力の一部でもある身代わりの速さ、知的商売人ならではの機会主義的な器用さに対する、激越かつ厳正、かつ卓越した批評となって、日本近代文学史における類例のない偉大なる諸成果を生むのです。
 そうしてかく、彼らの業績に対して一様にして十分なる敬意を奉げたのちもわたくしが感じますのは、依然としてkの国の於ける、彼らの思考の狭さであり偏りであったのです。この思考の狭さ、奥行きのなさはどこに淵源するのであるか、と。つまり頭脳のなかの、遠近法的キャパシティはどのようになっているのか、と。容量が言いキイとか狭いとかは、彼らにとって、あるいは日本人にとってどのようなことを意味しているのであろうか、と。
 その後わたくしはカントなどのドイツ観念論的なものの考え方を手掛かりに古典古代ギリシアの文化文明とものの考え方を少し齧るようになりました。そこで学んだのは言葉の卓越性という考え方でした。言葉は人間存在よりもより一層根源的であって、人間がそこにおいてこそ人間でありうるような人間の条件であるのかもしれない、というヒントでした。この偉大な考え方はキリスト教の『ヨハネによる福音書』にも偉大なる反響を残していて、ヨーロッパを考える場合に、ヨーロッパと対決する場合も含めてこの偉大な思想と対峙することなしには日本人であることができない、とまで思うようになったのです。
 翻って考えてみれば日本人に欠けているのは、言葉の卓越と云う経験でした。言葉の卓越と云うキーワードを手掛かりに、人間に先立つものとしての公開の場としての言語の普遍的卓越性、これこそがヨーロッパの政治哲学の根底にあるものだと考えるようになったのです。昨今言わている「公共性の哲学」とはこういう意味だったと思うのです。
 そうしますと、政治的であると云うことに対する我々のものの感じ方が随分違ったものになります。政治とは技術の一種ではなく人間的行為の表現の学なのです。美学とは美術や芸術をとおして美について考える学ではなく、人間的存在の全体性に関わる表現の学なのです。隣接しつつの重なり合う政治学と美学とは、人間の表現の学という意味で別物ではあり得ないのです。ギリシアの文化文明から学んだのはこうしたことでした。
 
 日本人は思惟と思考の自由度において様々に考えることができます。芸術を、哲学を、そして科学を、お好みのままに、なんでも、制限を知らずに、無限に、ほしいままに、空想夢想を交えて考えることができます。望むのであれば、ヨーロッパ人に成り代わって、ヨーロッパ人に成り切って、ヨーロッパ人以上に、本物以上のヨーロッパ人になって、ヨーロッパ的思考の形式に則って、考えることすらできます。そういう器用な方がいらっしゃると思います、日本人ですから。
 しかし思惟や思考の自由度と言葉の経験とは違ったものなのです。言葉の普遍性、あるいは言葉の普遍的経験と云うものは人間の思考を超えています。普遍的言語の磁場で自己を、自らの主観を鍛えると云う経験こそ日本人が経験したことがないものだったのです。
 
 こうしてわたくしの思考は循環し、最初の問いへと還元されていくのです。日本の、最良の知的場面を代表する知識人たちに固有に通底する狭苦しさ、奥行きのなさは、何事に淵源するのであるか、と。
 わたくしは常々シェイクスピアを愛読してまいりました。シェイクスピアの文学には悲劇があり、喜劇があり、史劇があり歴史劇があり(通常ローマ時代などを題材にとったものをこの名前で呼び、シェイクスピアが見聞した近過去のイギリス王朝をめぐる現代史を、歴史劇と分類しているようである。)、夢幻劇があり、おまけにロマンス劇という聴きなれない分野すらあります。特に卓越していると感じられるのは悲劇とロマンス劇と云う分野であると思いますが、優劣を論じることよりもそれぞれの多様な分野に於ける全体がシェイクスピアと云う人の計り知れない大きさを表現していて、ただただ畏敬の念をもって接するほかはないと思わしめるほどのものがあるのです。
 シェイクスピアの大きさは人生そのものの大きさなのです。ですから彼の劇を好む好まないに関わらず、彼に対してどう接するか、どう向き合うかに寄ってその人のキャパシティが逆に問われてしまうと云う、不思議な関係がある作家なのです。もし、初対面のひとを知りたいと思ったら面接に何時間もかけるよりも、彼がシェイクスピアを好むかどうかを聴くだけでわたくしには十分なことと思えます。それほどシェイクスピアの文学は多面的な広がりを有しているのです。
 しかもシェイクスピアの文学は多面的であるだけではないのです。言葉の臨場と云うか、劇が進行していきますと、登場人物の形を借りて言葉自身が語ると云う不思議な経験をわたくしたちは劇のなかで体験することができるのです。シェイクスピア劇のなかの饒舌と長演説は有名ですが、劇の筋を追うことよりも実は劇中に言語自身が自らの光のなかに立って、自らを演じると云う自己顕現の超越的な光景こそ、人間存在よりもより一層根源的なものの存在を予感させるのです。
 つまり17世紀のシェイクスピアの文学に於いてギリシア文化文明から学んだ言葉の自己顕現と同質のものに出会うのです。それが言葉の卓越と云うものなのです。カントが『啓蒙とは何か』や『永世平和論』などで語った、開かれた公共の場に於ける言葉の自己顕現と同じものがあります。
 小林や江藤、吉本、柄谷ら日本人の最優秀の知識人たちになかったものは、言葉自身が自らを語ると云う経験だったのです。これは個人の責任や能力の問題ではありません。それが諸国民が経てきた歴史と云うものなのです。作家の才能と云うものは、ある大事な局面においては、パーソナルなものを超えて国民的経験を代弁する神秘的な側面があるのです。それが言語が自らを語り顕現すると云うことの意味です。
 ついでに言うと日本国憲法にもまたシェイクスピアと同じようなことが言えるのです。日本国憲法には統治の規範的学という面と同時に、一流の文学でもあると云う側面とがあるのです。単に押し付けられた憲法というようなものではなく、日本語という言語が戦後七十年を閲して固有に輝いた時期があったと云う記憶なのです。つまりわたくしたちの、憲法との接し方、向き合い方が、憲法に対する対峙の仕方が、その人のキャパシティの大きさの程度を逆に顕わにしてしまう、と云う残酷さがあるのです。安倍さん、聴こえていますか!(笑)