アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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愛の弁証法的理性批判 モーツァルトとリヒャルト・シュトラウスのオペラ『薔薇の騎士』に描かれ謳われ アリアドネ・アーカイブスより

 
 
 
 
有名な愛の三重唱、マリー・テレーズ、オクタヴィアン、ソフィーの
 
 
 
 
 
 
 
出会いの愛の二重唱、オクタヴィアン、ソフィーの
 
 
あるいは最終場面の愛の二重唱、オクタヴィアン、ソフィーの
 
 
 
 
 
 先日リヒャルト・シュトラウスの『薔薇の騎士』などをDVDで見なおしたのですが、モーツァルトの『フィガロの結婚』などの場合もそうなのですが、男装して歌う役柄、専門的には何というのでしょうか、――あとで調べてみたらフランスオペラ所縁の「ズボン役」とありました――その、ソプラノの歌いぶりをみながら考えたことです。
 『フィガロの結婚』ではケルビーノと云う小姓のような女性の歌い手が出てきて少年の役割を演じます。このオペラでは描かれていませんが、このオペラのなかで散々に虚仮にされたアルマヴィ―ラ伯爵の悪だくみによって戦場に行かされ、戦死する運命になると聴いているのですが、その彼が劇中で精彩を放つ場面は、とにかく訳の分からない契機によって恋に陥る、と云う場面です。彼の場合は性格が未発達ですから、特定の誰かを愛すると云う人格としての愛ではなく、愛そのものだと云うところに特徴があります。彼は愛の到来を怖れ、自分とは全く別の次元にありながら、外側から規制してくる愛の機構の不思議さと云うものについて歌います。ケルビーノ少年は、女性が男性を演ずると云うオペラの建前上の約束事に従って演じられているに過ぎないのですが、性差を逆転させる説くことに伴うは儚さが、――さらに複雑な事情はモーツァルトオペラにおいては劇中において女装して歌う少年の役が劇中でさらに男装して重要な役割を演劇的に果たすと云う事情があります。シュトラウスもまたモーツァルトオペラの伝統を踏襲してみせます。――印象的にも、音楽的・声楽的にも、また原作者ボーマルシェ厭世観からくるノスタルジックな雰囲気も、より儚く感じられるのです。しかもこれをオペラとして取り上げたのがモーツァルトなのですから、音楽以外にあらゆる才能を欠いたモーツァルトはある意味では、愛すると云う能力以外のあらゆる生活的諸能力的な契機を欠いたケルヴィーノにある意味では似ていて、作曲家の自画像であると考えることも可能なのです。それにしても、モーツァルトの明るくて透明な音楽の背後にある憂愁と云うかメランコリー、そのペシミズムとはどういうものだったのでしょうか。
 こうしたモーツァルトオペラの憂愁を自覚的に取り上げたのがリヒャルト・シュトラウスと云われています(原作は高名なホフマンスタール)。音楽家としてのシュトラウスの領域は広大でわたくしの場合はオペラに限って言うと幸いに今日に至るまで見れたのは初期の『サロメ』と『薔薇の騎士』に限られているわけですが、その範囲で申しますなら、『サロメ』には明らかに性差の逆転が見られます。あるいは性差の中に潜んだ権力性、暴力性と云ってもよろしいでしょうか、権力者の恣意と虐げられるものとの対比が、性的で、しかもサディズムマゾヒズムの問題として、強烈なイメージで語られています。恋が二人称であり、同時に一人称としての愛として帰ってくるとき、虐げるものとそうでないものとの関係、加虐と被虐との関係が入り組んで混沌としてくるのです。つまりここでは愛とは固定された明瞭に輪郭をもった対象性ではなく、変異し変質し変転するもの、つまり愛が持つ本質的な意味での動態としての愛と云うものについて言及していることがより重要なのです。やがてこの出来事は不吉にも、当のドイツ共和国のナチ政権下においてポロコーストの問題として、スターリン裁判の問題として、大規模な形で歴史上登場してくることについて、一つのヒントを与えていると思うのですが。
 愛が本質的に持つ動態としての機構について、『サロメ』が影の場面を描いたとすれば、『薔薇の騎士』においては、大規模なオーケストレーション管弦楽と音楽的な構成を用いて、目くるめく様な絢爛豪華な花の祝典を描いています。
 このオペラには三人のソプラノ歌手が出てまいりますが、その一人であるオクタヴィアンこそモーツァルトオペラの伝統に向けられたシュトラウスの敬意でありオマージュでもあります。オクタヴィアンは、当時の上流階級のしきたり、つまりスタンダールバルザックが好んで描いたような貴族階級にある青年の情操教育、合わせて政略結婚が当然視されていた貴族階級の娘が、自らを「もの」として扱われりうことに対するある種の、押しも押されもせぬ賢婦人として成り果てたあとの権利の如き補償作用として、若い愛人を持つと云うことが当然の権利のごとく認められ、それを認め黙認することにおいて貴族自身もまた反面、アヴァンチュールに現を抜かすと云う慣習と云うか、上流階級のそれも最上層層の頽廃的な風俗や半ば慣習化された生活様式を前提として描かれています。
 第一幕は、オクタヴィアンが年嵩の、老齢期が間近にあると云ってもよい恰幅のある、堂々とした元帥夫人マリー・テレーズの豪華なベッドで悩ましくも目覚めるところから始まります。前途に控える人生の青雲になにひとつ曇るものとてないかにみえる青春のただなかにある青年にとって、衰えていく生の横溢と美貌の陰りのなかで母親のような年嵩の女が持つ意味は何であろうか。同時に、身じまいを終えて人目を忍んで早朝の館から退出していくオクタヴィアンを見送る元帥夫人の眼差しには、退役前の将軍か引退前の名俳優のような幕の引きどころをあぐねるゴージャスな世紀末の哀愁と憂愁が立ち込めていて、それを情感を籠めて一人のアリアとして歌う場面が有名です。
 第二幕では、オクタヴィアン、元帥夫人マリー・テレーズに続く三人目としてソフィーと云う成金、ブルジョワの娘が出てきます。このへんはヴィスコンティの映画『山猫』に似ているわけですが、ソフィーは『山猫』のアンジェリカとはまるで違います。アンジェリカは身分や出自に寄らない才覚と個性だけを資産として生きていくことになる新しい時代を象徴する女性として描かれていますが、ソフィーは知能も世間並みかどうかを疑われる、無邪気そのものの少女スノッブとして描かれています。彼女はオクタヴィアンが婚礼の使者として「薔薇の騎士」の装束で訪れると、それが彼女が長年抱いていた貴族的なものの顕現の典型のように思えて、宗教的な啓示に撃たれたように一目惚れしてしまうのです。恋愛であれ何であれ大事なことは信仰生活の言語で表現するところに彼女の無邪気さと保守性が表現されています。
 他方、オクタヴィアンはそろそろパプスブルグ的パトロネージの伝統的文化と通過儀礼を卒業すべき年齢に達していて、彼らしい、保守的な女性観にソフィーが一致していることを認めるのです。ソフィーの打算のない処女スノビズムが、無垢なるものとしての愛と云いう、これもまた古典的で形式的な彼の保守的な恋愛観に合致するのです。ここで古典的という意味は、フランス革命後の、身分や出自に寄らない、ひとは人格と個人の尊厳だけによって愛し合うべきである、と云う考え方をさしています。今後、伝統的、保守的という意味合いと、「古典的」という意味合いの違いを、こうした脈絡のなかにおいて使いますのでご承知おきください。古典的とは、近代的と云う意味合いと同じコンテキストにおいて使って行きます。
 さて、こうしてリヒャルト・シュトラウスのオペラ『薔薇の騎士』は、一方ではウィーンにおけるフランス風のサロン文化の良質な部分の精華とも思える元帥夫人マリア・テレーズの哀惜としての愛、他方ではソフィーとオクタヴィアンにみられる聖婚と云うにふさわしい、一方では古典的な他方では伝統的保守主義的な、定型的なキリスト教的な愛の三人三様を描いて、イデオロギーとしては大変に形式的で陳腐だとも云えるのですが、さて、ここからが「オペラ」なのです。たかがオペラ、されどオペラなのです。
 実を言いますと、わたくしは未だにこのオペラの魅力を説けないでいるのですが、陳腐で形式的で姑息因循の凡そ新味のない愛の類型性がなにゆえ、歌い歌唱する劇としてのオペラにおいては、通常の舞台芸術とは違った魅力ある世界へ導くことが出来るのだろうか、という問いの前に数年前から釘付けの状態にあります。
 その理由は様々にあるのでしょうけれども、ひとつはビクトール・ユゴーが語ったと云われている有名な評言、――オペラにはアンサンブルと云う歌唱の形式があって、舞台劇では台詞の意味を明瞭ならしめるために、登場人物が同時に語ったら意味不明になりますが、オペラではクライマックスで同時に、複数の人間が歌うのです。モーツァルトプッチーニのオペラなどでは六人が思いのたけを籠めて互いの歌手の声量を打ち消すような想いを籠めて同時に歌うことすらあります。意味は断片と化して違った次元から響いてくるように感じられます。そういいう意味では『薔薇の騎士』は第三幕の新旧の愛が交代する重要な場面で三人が同時に歌うだけですが、少し違うのは通常のオペラでは音域の異なったソプラノ、メゾソプラノ、アルト、テノールバリトン、バスの様々な歌い手を適宜配置して華やかで多様な音楽の醍醐味を味あわせるべく作曲家は腕を振るうのですが、シュトラウスのこのオペラの場合は極めて異例です。年齢の異なった三人のソプラノ歌手が堂々の歌いぶりを展開するのです。
 結局、なにゆえ女性が男装して三人のソプラノだけで舞台を構成するかという謎に答えることに、わたくしは未だにできないでいるのですが、この場面の音楽的な効果は圧倒的なものがあります。
 一つの可能な回答として考えられうるのは、それぞれの愛ではなく、愛自身が自らを歌い語っているからではないのか、と云うことなのです。愛は、その最終系としては性差を超えるものであって、基本形としては女性形をとるのではないのか、というのがわたくしの想像です。というのも、愛を定義する最大の根拠は、愛が謙りの精神のうえに築かれていると思うからです。愛は自らをこの世で一番最も貧しいものとして意識し、取るにたりないものとして謙りながら、愛は謙虚さのなかで寛容であることと出会うのです。
 愛を経験し愛を語るためには男であれ女であれ性差を超えた永遠の女性的なるものを自らの資質として持つことを必要十分の条件とするのではないのか。男性的な愛と云うものはこの世にあるでしょうけれども、愛を定義するとするものとしては不十分で、そのことを持ち出すのは自己矛盾なのではあるまいか。
 愛は、最終的な形としては女性形をとる、これは性差の違いに関わらず言いうることであって、哲学的な表現をかりるならば、即自態としては女性的なものの光を浴びて光の中にヴィーナスのように誕生する。
 第二に、即自態としての愛は、それを捉え返すものとして、自分に向き合うとき、すなわち他なる永遠の女性的なものに対する男性性として意識する、これが第一段階の異性愛の起源となると同時に、自らをもう一度永遠に女性なるものに対するより強い強度のものとして自らを女性として意識するものとすれば、これがレスビアンの起源になる、即自態としての愛に対自態として向かい合う永遠の女性的なものに対する相互に向き合い対峙しあう互換しあう動態としての女性性!これが古典的な意味でのレスビアンの起源ではないかと思っている。
 第三に、愛は原型的なものとして自らの永遠に女性的なるものを意識し、それを外部の世界に投影する。そうするといままで日常の光に覆われていた世界が揺らぎつつ変質しはじめ、次第に」この世ならぬ形をとって世界が現れる。愛はこれまでの即自態、対自態の愛の各々のあり方を遍歴的に理解し諸経験を経めぐり、自らを光源として愛を外部世界に投影しつつも、この世に生きることの意義に次第に目覚めていく。それが他者に向き合うものとしての愛、対他態としての愛、これが地上的な意味での物象化されたものとしての社会関係性としての愛、すなわち異性愛の起源であるのではないかと秘かに思っているのである。
 
 リヒャルト・シュトラウスの初期オペラに関しては結論はこのようになると思います。
 『サロメ』は、動態として、相互変換する地上の愛、愛の負の弁証法を描いたもの。
 『薔薇の騎士』は、地上的な意味でのそれぞれの愛、愛について語ったのものではなく、愛が自らを意識し、愛の遍歴と経験をとおして愛が自らを語ると云う軌跡と奇跡、愛の正の弁証法を描いたもの。