アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

アリアドネ会修道院附属図書館・アネックス一号館 本館はこちら→ https://ameblo.jp/03200516-0813  検索はhttps://www.yahoo.co.jp/が良好です。

「実在の輝き――ヨーロッパの思想の底にあるもの」 サンタ・マリア・マッジョーレ物語・2 アリアドネ・アーカイブスより

 
 
 物質の尊厳はいかにして貶められていったか、その歴史的経緯は如何なる様相を呈し、屈折点はどの段階で生じたのか。精神と物体、近-現代人には分かりやすい二元論とは異なって、古典古代のギリシア人と、それを日本に文献として伝え紹介したヨーロッパの学者たち、それを受容した明治期の日本人は、アリストテレスの自然学において少なくともそれを説明する語彙として二つの要となる用語、――形相と質料として訳出し、近代思想における精神と物質とは異なる意味を、たしかに朧げには掴んではいたとは云えるのだろう。
 精神と物体、近-現代思想を手短におさらいしておくならば、それは二つの観点から、――ひとつ目はデカルトに代表される観念論の立場から、物質とは宇宙の構成主義的超越論的原理において従属させらるべき、単なる恣意の対象としての絶対的受動態としての、加工されるべき対象性に過ぎなくなるし、それと対立する唯物論の立場からすれば、観念は物質の影にすぎない、マルクス主義的により洗練された表現をかりれば、あらゆる人間的営為の精華たる上部構造は資本主義的経済機構等の下部構造によって根本的な規制を受け、かつ絶対的な拘束力を受けた単なる物質の影、という思想が成り立つ。
 蛇足めいて今日の政治的な社会状況について付言すれば、ひところの日本人はかかる西洋思想の近-現代的なディレンマをさらに更に勘違いを犯し素朴唯物論的に理解して、物質尊重や拝金主義への感情的嫌悪感、の表明、東洋的「精神」を物質の汚辱思想から防衛すると称する、被害妄想的で自己防衛的な機構、――大東亜共栄圏の思想と、戦後に於いては林房雄三島由紀夫らの「文化防衛論」、あるいは小林秀雄から江藤淳らの高級・高踏でエレガンスに洗練された国粋主義的保守思想のリアクションを経て、司馬遼太郎風の国富論的な発想、さらには昨今の安倍晋三の右翼少年的発想と寝小便臭さを脱し得ない無知文盲の無教養の最近の言動に至るまで尾を曳く白痴めいたポピュリズムとファッショの現象があり、他方、規模も質的な環境においても異なったリアルポリティクスとしての国際環境を対抗軸の彼方において、戦後日本思潮の凡そ独りよがりの素人じみた、滑稽で無邪気なお人よしの、ベニスの商人的発想並の非政治的人間の愚かな田舎まわりの芸人座の軌跡と行動を、知らず、描きつつあることをも付け加えておかなければならないことだろう。
 アベノミクスと云う名の政治思潮に言及するならば決まって帰ってくる権力側のリアクションの定型的スタイルに、国賊、と云う語彙に付属する戦前の雰囲気を彷彿とさせる古ぼけた政治家的感傷の様式があるが、安倍官邸が指し示す政治の方向に対して反対の政治意思を想定しているリベラルの論客だけでなく、それを遣るにしてもそれに相応しいものは少なくとも安倍君ではないであろう、と考えている保守層がいることにも留意してほしいものである。三島や小林、江藤が仮に生きていたとして、政治的方向をめぐる賛否の論議以前に、安倍晋三に一億の民の命を託してよい人物とは思わなかっただろう。
 近-現代思想の二元論が思想としては行き止まりであるのは明らかで、その思想を呈し、その陰に生きる現代人のメランコリーとも無関係ではなかろうことは、凡そ想像することができる。精神か物質か、ではなく、かかる近-現代の二元論的発想を如何にして揚棄し、廃棄して、「実在」に尊厳を取り戻すべく思想を打ち立てるか、ということだろう。ここに云う「実在」とは、現象に対する本質と云う意味での、伝統的プラトニズム的な理解の仕方を必ずしも退けるものではないし、「実在」を「神」と置き換えれば神学や敬虔な信仰的態度や世俗的市民の生活様式とも背反するものでもない。むしろ近-現代社会の、生活様式の全構造をも含んだ、上部-下部構造としての全領域へと敷衍した、自らを神の如きものと錯覚した近-現代の思想構造に対しては、思想的パルチザンとしてある領域までは、歴史的妥協あるいは戦術・戦略的観点から、共同戦線を張るべき同盟軍として――知的な十字軍とまでは言わないにしても――捉えるべきものと理解している。
 
 ローマに旅立ったとき、少なくとも「永遠の都であるローマ」の建築や歴史的構造物に触れることをとおして、その廃墟、その遺構との出会いをとおして、「実在」の一端にでもよいから触れることができればと願った、せめて、その端緒の痕跡の尾鰭にうち当たる儚い手応えのようなものではあれ、すれ違うことができればと、幻想としての古代の影との遭遇をとおして、ことばの幸いに出会うことができたらと願った。
 紺碧の天空に白亜の大理石をもって虚空に柱と梁で仮構するギリシア建築の栄光と、穿たれた洞窟の中に射しこむか細き光を恩寵として捉えるロマネスクの思想とが、やがて恩寵の光がひかり顕現する物質の影として現象するゴシックの思想として結実し、それらが渦巻き状のカオスとして宇宙に拡散するバロックの思想が横溢すると云われる、その町の街角の佇まいに、低き泉水の呟きにもにた響きに、一度でよいから触れてみたいと思ったのであった。
 
 あなた(オクタヴィアンことオクタヴィアヌスすなわち”両性具有のローマ”)がそこにいる。そして、わたしはここにひとり佇つ。わたしとあなたがいて、そしてあの娘(ソフィア=叡知)がそこにいる。
 
 ただ、ある、ということから伝わってくる慄きと、震えるような実在のひくき轟き・・・・・。
 
 何と云う単純な事物の是認であろうか。オペラ『薔薇の騎士』が描いたのは、「実在」の驚きである。「実在」の輝きである。「実在」の発見を通して見て遭遇した、――錬金術的な比喩を用いれば、光り輝く物質との出会いである。
 もしわたくしに極小の局地戦をゲリラふうに闘い抜く術があるとするならば、もしわたくしにヨーロッパの思想との対局し対峙する地平があるとするならば、この日、この時、この場所においてでしかない。