アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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「私性」と「個性」 アリアドネ・アーカイブスより

「私性」と「個性」

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 私性と個性、それはどのように違うか。
 建前ばかりを言う人間をわたくしたちは軽蔑の念をもって受け流すだけだけれども、戦後の思潮は、建前の背後にあるどろどろとしたもの、エゴイズムと名付けられたようなもの、つまり「私性」を言ってもいいのだよ、遠慮しなくてもいいのだよ、と諭すようにして教えてくれたのも事実である。
 特に、戦後日本史にとって固有な現象としては、建前(天皇制)に裏切られた事実がある。本音を主張することがある範囲内では進歩的でもありうると云う幻想を持つことも可能な時代があった。
 
 戦後、小林秀雄をはじめとして、江藤淳吉本隆明などの名だたる論客たちが、左右の政治的姿勢の違いはあるものの、似通った印象を与えるのは偶然ではない。小林秀雄の念頭にあったもの、それは『様々なる意匠』と喝破された、あらゆる形態をとり得る進歩主義(とりわけ共産主義に向けられたもの!)の観念性に対する激越なる不信感、江藤淳の場合は戦後民主主義と日本人的矜持の喪失、吉本隆明の場合は日本共産党と戦後社会の構造的類似とそれをそれとは知らずに補完する観念左翼や進歩的知識人の動向と無自覚さに向けられた批判など、自己の履歴を顧みての彼の苦い自省と自己批判の結果と云うところだろうか。
 これらの本を読む場合は、随分随分難しいことや神秘めかした言い方にもかかわらず、本音を言うことが大事なことと思っているのだな、と思えばよい。
 
 翻って考えてみるに、丸山政治学に代表されるような戦後派知識人の形式としての、普遍対特殊性、と云う二元論的な発想が主流を占める中で、すでに終戦直後の1950年代から、かかる本音型の思想家や批評家が活躍していたと云う事実をもっと評価してよいのではなかろうか。西洋的なものの考え方や理念を規範として仰いで、翻って特殊性としての下降されたレベルとして日本の現状を考える、分かりやすい教授型の思考パターンである。しかるに先に述べた小林型の群像は明らかにこの種のパターンとは――進歩的文化人と云いう言い方が一頃流行ったが――違っている、違っているばかりではなく、真正面から敵対する思考の形と云ってもよい。
 わたくしが言わんとするのは、かかる思考型の人間の登場が敗戦後の直後の50年代に登場していることを、自然な経過事象としてではなく、もっと特異な日本的事情として評価すべきではないか、と云う点である。
 つまりこういうことだ、――西洋文明の亜流と評価されがちの日本文化圏において、実情はそれほど卑下する水準にはなく、かなりの程度の文化的成熟がすでに見られていたのではないかと云う点がひとつ。もう一つは、小林らに代表される思考パターンを仮に「戦後日本型」と名付けるとすれば、二十世紀の世界思潮は「日本型」に向かって進んでいったのではないかと云う意味で、グローバリズムの一翼を担っていいるのではないのか、と思うのである。そうしてこれら「日本型」思考の「先見性」を支えるものと、日本語という言語の役割について、もっと丁寧で広範な検討が必要とされているのではないのか、と思うのである。またこの問題は日本語の勝れた特質に関わる問題でもある。この問題のこれ以上の追求遡及はわたくしの言語能力では及ばない限界となり、打ち止めとなるのは残念ながらやむを得ないことである。
 
 さて、先に世界思潮の日本化、と云うことに言及したのであった。つまり眼に見えないものの存在に重きを置かず、場合によっては神やイデア等の「実在」概念を、虚妄として糾弾し、物事の有無以前の、「無意味」と観じる考え方である。神やイデアが存在するかしないかではなく、そのような問いそのものを無意味と観ずる世代の出現である。ルードヴィッヒ・ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』などが先進国で、特に我が国の読書会に受け入れられたのには理由があったのである。ヴィトゲンシュタインの登場は、ちょうどマルチン・ルターの質問状のような体裁をとっていたと云う意味で歴史的でもあれば象徴的な出来事でもあったような気がする。
 
 もう一人のドイツを代表する象徴的な現代思想家マルチン・ハイデガーもまた哲学の基礎を、人々の気晴らしや倦怠感のもやもやと云うありふれた「気分」性から出発すべきだと主張したらしい。
 つまりわたくしたちは新しい時代の主張に立ち会っていると云うことを自覚すべきである。つまり、ぬけぬけと通常人のありふれた感性に哲学は基礎を持つべきだと云うあからさまな主張に出会うのである。
 この考え方の革新性は、普通人のあり方に注目したことにあるのではなく、通常人の無名性と云う特質を手掛かりに、「超越」の問題を哲学的思考圏から排除したあり方にある。超越、がいままで保持していた座が「空白」となった時、それは何の絵でも書きうる無名性のキャンバスとなる。空白の無記のキャンバスに、例えばヒトラーの似顔絵を描き得ないと云う絶対的な内的保証はこの水準ではなくなるのである。同時に空白の無記のキャンバスを「自由」と呼び変えて個性的個人の実存の根拠としてとらえたジャン・ポール・サルトルなどの志向の不徹底さを揶揄する抜け目のない農夫と評される底意地の悪さも、ハイデガーらのこの場所に淵源する。
 
 わたくしが言いたいのはこういうことだ、――普遍と個別、理念と現実、そして建前と本音の区別の「無意味」を主張するのは良い、しかし人類は「超越」の問題を見失ったとき、「個性」と「私性」との違いも分からなくなるのではなかろうか。
 私性、――難しい定義をしないのであれば、要するに「自分が可愛い」と云う考え方である、ととりあえずは考えてよい。人類は、自分もまた自然界に生きる生物種である限り、適者生存の淘汰の過程のなかで「自分が可愛い」という考え方は何時の世にもありうる普遍的で遍在的なあり方であるように、一見思える。デカルトのコギトに代わるこれのみが確実でありうる、歴史を超えた普遍の個人の原理であるように、一見見える。しかしひとが「私性」であるとき、人は誰でありうることができるのだろうか。誰でもあり得て誰でもないこの「私」とは何か、私性が持つエブリーマン性は、無名性の私、任意に取り換えの利く、誰でも性、と云う問題を導くのである。
 
 翻って考えてみるに、わたくしたちが他ではあり得ない、この、固有な「私」と感じるのはどのような局面、どのような場面だろうか。わたくしたちは恋愛と云う経験を持つとき、対象が絶世の美人ではないことを知りつつ、相手の美の本質を説明できない。また、生きているときは意識していないけれども死者に対面してその死を葬送としてみおくるとき、わたしたちは悲しみを通して固有な「私」と云うものの在処に直面する。この悲しみは他人が感じるものではなく、ほかならぬ固有な私が感じる固有な悲しみであると感じるとき、世界の中にただ一個の存在である自分自身と云うものを感受する。これは「私性」ではない。固有なものの感じ方を通して他者に繋がり得るからである。わたくしはこの感じを「個性」であると云いたいのである。個性と云う概念を理解する全てとは言わないけれども、本来政治的領域にまたがる個人、個性と云う概念を理解するための文学的比喩として引いているのである。
 私性と個性、大変に似ているようで似ていないことを、わたくしは十分説得的に説明できただろうか。
 
 昨今の政治状況をみるに、わが国における安部政治の出現、アメリカ合衆国におけるトランプ氏の優位、彼らに共通するのは解りやすさである。一方は国防や集団的自衛権の問題を友達同士の友情にたとえ話で説明した。トランプ氏の思考の型を予見し先取りしていたと云う意味でも先駆的だし高い評価点を与えてもよいだろう。二人に共通するのは素人性である。職業的専門性に対する反感である。移民の禁止や自国内産業の自己防衛のための関税論など分かりやすいけれども、そのこと自体の個別の是非を論じることよりも、ハイデガーがかって主張した「私性」の時代の到来と、かかる動向が二十世紀思潮の延長線上に出現したものであり、かかる全体的構図の脈絡のなかにおいて読み込むべきである、と云うことの認識の方が大事だろう。
 こうしたものごとの考え方の延長線上において考えるならば、確かに安倍晋三が信じているように専門家や知識人と云う存在は不要になる。政治学や法律論の問題は大学で議論すべきが適当な些末なスコラ学的な議題で、政治や法律の運営面、実際面については自分たちの方が逆に「専門家」である等の分盲とも厚顔無恥とも居直りとも云える、露骨であからさまな反知性的と過去に評された彼の、知的品性のなさ、無教養さぶりの堂々とした発言・発露などの現象も、こうした脈絡のなかにおいて考えてみると解りやすいような気がする。社会性や政治的論議のレベルを高崎山の統治論と通俗的ダービニズムのレベルまで下げれば、確かに安部の言うように学問や文化・芸術が出てくる余地はない。
 過去に政治家としての内省的経験として、プラトンイデアアリストテレス政治学などにについて一度も考えたこともなければ、反対にヨーロッパ政治史のザッハリズム根ざした、徹底的に個別個物に関わる、固有なものの考え方をすると云う個性、強靭で冷徹なな思想的営為に耐えて幾重ものしんどさを掻い潜ったプロの意識、マックス・ウェーバーがかって言ったような意味でのプロフェッショナルとしての職業人の意識、つまり「個性」に到達すべき、冷徹な禁欲の意識が全く欠けている、と云わざるをえないのである。