アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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シェイクスピア文学の多面性、悲劇について アリアドネ・アーカイブスより

 
 
 少し前にわたくしはシェイクスピア文学の大きさ、多面性と云うことを云うことを少しお話しました。その時は、彼の文学ジャンルの広大さ、について語ったつもりです。悲劇、喜劇、史劇、歴史劇(現代史劇)、ロマンス劇、さまざまにありました。
 ただ、シェイクスピア演劇の大きさ、偉大さを語るには単に題材や素材の多面性に限られることはないのです。その代表例が『ハムレット』であると思うのですが、確かに四大悲劇のなかに選ばれたほどのことはあります。
 シェイクスピアはこの劇のなかで、まず、われわれの先入見に訴えます。父王が不慮の事故死を遂げて、時を経ずして王妃と王弟が結ばれる。長男であると同時に一人息子であるハムレットにとって面白いはずがありません。そして、劇の冒頭では、そうした闇の因果関係は伏せられていて、夜ごとに父王の亡霊が城壁の影に出ると云うのです。この慄きからこの劇は始まります。
 有名な劇なのでこれ以上の言及は避けます。この劇の無残さは、劇のあとを追うにつれて全員が破滅するのです。そしてその破滅の仕方がそれぞれに劇的なのです。卓越しているのはもちろん主役であるハムレット、それに劣らず、王妃のガルとルートもまた素晴らしい。
 この劇の偉大さは、それぞれがそれぞれの死を生きた、と云うことなのです。無垢な乙女のオフィーリアは、悲劇に先立って不慮の事故を遂げます。その意味は、乙女の無垢な志によって悲劇を予感し、人間たちの罪を洗い清めると云う、予感的黙示と云う形式が取られています。
 他方、ガルトルートの死はオフィーリアと相対するような形で事後的黙示と云う形をとります。彼女は息子であるハムレットの命を救いたいけれども運命には従順です。彼女は半ば解っていて毒盃を仰ぎます。これを合図に凄惨な殺戮劇が開始されます。そうして全員が死んで、まるで棚から牡丹餅を受け取るかのように突如登場した隣国の王子フォーテンブラスの、全てを見据えていた弔いの荘重なる弔砲を余韻として響かせてこの偉大な悲劇は完結いたします。
 シェイクスピアの多面性、偉大さと云うことを語る場合に『ハムレット』をとりあげたのは、見終えても劇の輪郭が分からない、という意味です。悲劇の輪郭が分からないだけでなく、性格劇としての登場人物の輪郭が揺らぎ始めて劇中世界の振動がこちらに伝わってくるのです。
 どういうことかと言えば、ハムレットとはギリシア悲劇以来のオレステア以来の母親の姦通劇に立ち会う不運な息子の物語なのか、それとも一切は彼のノイローゼの症状が生んだ過剰な妄想だったのか、分からないのです。
 同じことは不慮の死を遂げた父王の死についても、毎夜夜ごとに現れる父王の亡霊は真実の霊なのか悪霊なのか分からないのです。ハムレットの悩みもそれを特定できなかったことにあります。本当の父親であるならば人々を無残な殺戮のなかに誘い込む悲劇を望んだであろうか、と。
 悪玉とみられている王弟のクローディアスも描かれ方は多面的で、殺そうと思えばできるのにハムレットの処分を躊躇し日延べを繰り返している。いよいよ彼の殺意が迫ったとき彼ややっと立ち上がって決断する。何か兄であった王に王として相応しからぬことがあり、国を保つために王妃と家老のような役職にあったポローニヤスとクーデターのようなものを仕組んだ、国政に関するならば善王ではなかったのか。
 もしそうであるとするならば国を保つために王弟と結託し、かつ倫理的な風評を受けなければならないガルトルートは死ななければならない。それゆえにこそ、殺戮劇の先駆けとして自らに運命の時が到来したとき、自らの死を祝福するかのように毒杯を仰ぐのである。
 それにしても、それぞれに独特で固有で英雄的であるとすら云える死を遂げていった複数の悲劇的人物たちは良いとしても、悲劇に関わらされて巻き込まれて死んでいく何の関係もないその他の人物たちこそ哀れである。
 唯一得をしたのは、隣国から国境付近くを周回し、ちらちらと謎の隊列の影を見え隠れさせるだけで虎視眈々と執念深くも狙っていた隣国の王子フォーテンブラスだけだった、と云うのが何とも救いようがない。
 人生とはこんなものだと云っているようでもあり、シェイクスピアよ、そんなものであって許されるのですか?というのがこちら側の問いである。この事情は、あと二つの悲劇『オセロ』においても『リア王』においても変わらない。
 せめてもの救いは覇者である隣国の王子フォーテンブラスが人格、器量ともに勝れた武人であるらしい、と云うことである。
 
 まあ主にシェイクスピアの悲劇について話したのであるけれども、こうした割り切れない話を幾つもいくつも読まされると、あるいは観劇させられると、シェイクスピアの文学は人生そのものだと云う気がして来て、彼の文学に対する疑問は、実は自分自身に対する疑問であることと等価の関係にあることが分かる。優れた文学とはその文学の前でわれわれの襟を正さしめ、われわれ自身に問いかけるのである。
 世の中が混迷の度合いを深めるにつれていよいよ彼の文学は身近なものとして感じられてくるような気がいたします。