アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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言葉の反作用 アリアドネ・アーカイブスより

言葉の反作用

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 国益に適う!或いは国益を損なう利敵行為をしてはならない、当たり前のことなのに改めて言われると、なにかわたくしたち国民の側に落ち度があるように聴こえます。――裏声で、非国民!を探せ、と。
 さてその鯖江ブランドの稲田氏が、衆議院予算委員会愛国心の中身を問われて泣きべそをかきました。似合うわけでもない伊達メガネを無理をして掛けているので硝子が光って余計に目立ってしまったのは哀れでした。内容は戦没者追悼式の欠席その他の一連の国務大臣としての諸活動、諸対応を廻るもので、あなたの愛国心はその程度のものだったのですか、と切り込まれてしまいました。辻本議員の上手さは護憲の立場から懸念や反対意見を述べたのではなく、あなたは右翼として徹底していない言行不一致がある、と述べたのです。あなたはもっと右翼として徹底なさるべきだ、と。辻本議員の、関西なまりの、独特のイントネーションで追及されると迫力がありました。しかし実際にここで痛手を受けたのは、その隣で聴いている、薄ら笑いがこのところ常套的な癖になった某国の総理大臣の方で、本人は余裕があることを見せつけているつもりでしょうが、流木のように生気のない白亜化した表情と組み合わされると、安物の蝋人形のような脆さ、嘘っぽさ、人としての軽さを感じさせます。
 国益重視、ごもっとも。憲法改正も、しかり。自衛隊は国軍として認定すべき、方向は是認するものの一人なのですが、この人たちの人としての軽さが少々いただけない。よく映画に出てくる、部下を見捨てて逃げ出す司令官が出てきますが、ついそんなシーンを思い出してしまうのです。
 国益、国防と云えば、話題としては下火になりましたが例の田母神さんのお姿です。随分と威勢の良いことを講演会や街頭演説等で、日本の津々浦々で打ち上げておられましたが、最後は選挙に絡んであえない逮捕劇のいち人物にされて幕となりました。誰も見向きをする人は今後はいないでしょう。このほかにもこの人に関しては語るも哀れな末路が表通りで公明正大に語られていますが、語るに落ちるので繰り返すことは遠慮いたします。そんな細々としたいちいちの現象面の出来事よりも、こうした脇の甘いお人よしさんが、情報が筒抜けの人の無防備であることに慣らされた戦後世代の素人のような人が、わが「国軍」の中枢にいたと云うことに驚かされます。鯖江ブランドの方が言うように、たとえ日本が核武装したとしてもちぐはぐで戦いにならないと思います。人が良いだけでは国は守れませんし、政権にすり寄るゴマすりの技術だけではこの程度のことでも不意を突かれて立往生せざるを得ません。覚悟のない、このような動揺しやすい人に、そもそも国を守ると云うことができるのでしょうか。
 
 
 ところである国の総理大臣の席にあられるお方は、言葉よりも行動を!と一つ覚えの行動哲学を、折節に説かれてみせます。言葉と行動を対比的に捉えるこの人の言語観はどういうものなのだろうか、頭の構造はどうなっているのか、とつい考え込んでしまいます。
 言葉とは世界の意味文節作用であって、言葉にできると云うことは、世界の広がりや陰影を、実在の重みあるものとして捉えていると云うことです。言葉とは単に意見や言説を伝えるコミュニケーションの手段のようなものではなく、世界を有意味性の体系として捉えると云うことですから、世界の広かりや重さ、実在のキャパシティに関わる問題、つまり人間としての容量の問題なのです。政治家の華麗なおしゃべりも結構、これ見よがしの公約実現の成果も結構、華々しい行動も実行する力も結構、しかしわたくしがそれ以前に政治家に期待するものは、最終的には人としての重さなのです。この人は人として信用できるのか、と。信用できない指揮官の元では闘うことはできません。
 
 薄ら笑いの脳みそが少し足りない色男に言わせれば百の言葉も実行が伴わなければ意味がない、と云うことになるのでしょう。しかし言葉を軽視する者を支えている世界の重さとはいかほどのものだろうかと考えます。行為や行動とは、言葉に対立するものではなく、言葉が世界の有意味性のなかでより高次化されたあり方だと考えることもできるのです。言葉が自らのなかで有意味性を孕んで孵化し外化した姿、それが行為や行動と呼ばれているものの真の定義です。言葉ですら説明出来ない行為や行動など、そもそも何ができるでしょうか。
 
 言葉を語ることは犬の遠吠えではありません。意味を介して世界と繋がっています。それは神秘的なか細い杣道のようなものですが、以心伝心のような神秘的な反作用の如きものを与えることができます。
 自慢で云うわけではないのですが、さる9月25日に天皇陛下生前退位に関する「お言葉」について書いたとき、靖国の砂利を高鳴らしながら柏手を打つ「愛国者」たちの「中身」や「程度」について言及したとき、それは五日後の辻本議員の先述の委員会での質疑と云う形で、現実化した出来事となりました。言葉には、現実化する力があるのです。
 7月30日に古いむかしを思い出したように、石原慎太郎の『太陽の季節』に言及したとき、彼が参院選で見せた親馬鹿ぶりを別とすればいまだ彼の威信はこの段階では傷ついてはいませんでした。政治家としての石原慎太郎ではなく文学者としての慎太郎を、言葉の問題として考えてみたとき、言葉と向き合う姿勢のなかから、どういう形で彼と世界の向き合い方の構図が現れてくるのかという興味の元に、文学論の形をとった、ある種の言語論の体裁をとった文芸批評を書いたつもりでした。『太陽の季節』などに見られる、行為や行動を言語化して捉えることのできない、慎太郎の言葉にできないもどかしさが、文学の場合はプラスとして働くこともあるし、マイナスとなることもある、と書きました。ここでは政治と行動の世界を直接取り上げたわけではありませんでした。
 にもかかわらず言葉は夜の闇の虚空に鏑矢のように撓って飛んで行って、渦中の人物である彼の在処と云うものを夜間照明弾のように鋭く閃光のように指し示しました。陛下の「お言葉」に対する政府の応答の仕方から、今日愛国者を声高に称する者たちの死者を悼むことなき不敬さについて言及したときもまた、先の予算委員会での質疑を導出しました。自然科学的な因果関係があると云っているのではないのです。小さな入り江の水溜りが四海に繋がっているように、言葉は秘密の杣道を抜けて広い世界に繋がっているのです。
 
 言葉とは、たかが言葉、されど言葉なのです。不正や禍ごとを見過ごすことなく、たんに思うだけでも大したことなのです。できれば言葉が形を成して表現となればさらによく、声として発話されればより以上に良く、言表として公共性の光のなかに立たされてあれば、カントがかって言った、世界公民的立場そのものの体現となるのです。
 人は知識や情報に寄らずに、大事なことについては物事の善悪を正しく判断できる能力が備わっています。それを洞察力と呼びます。どのような人間にもこのような能力が備わっていると云うことを前提に市民社会は成り立っています。専門家や学識経験者、政治家たちに億する謂れはないのです。