アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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日本語を語る政治家の文法――言葉をないがしろにするもの達の群像 アリアドネ・アーカイブスより

 
 
 このところ、連日、稲田防衛相に対する質疑応答が続いていますが、防衛大臣と云う職責がこの時期にきて重要な役職であると云う認識とともに、攻めやすい、という野党側の戦略的な思惑もあることだろう。動揺しやすい、泣き虫である、と云うこともあるのかもしれない。過去、田母神元幕僚長の事件もあったように、人の資質を見積もる!軍事や防衛という大事な仕事を軽く考える伝統がわが国にはあるように見受けられる。
 野党側が問い質したのは、領収書を廻る政治資金の問題で、特に彼女だけが問題ではなかっただろうが、お互いの政治集会やパーティに出席した際に発行される領収証が長らく無記入のまま、回収者の所掌に任せるままの流通していたと云うのであるが、菅官房長官なども同様に追及を受けた。
 菅官房長官の答弁は、お互いの仲間内の間で了解された内容の元に――言わんとしていることは、”永田町”の伝統と云うことだろうと思う、――金額記入のない白紙の領有書を発行しているのだから、政治資金規正法上も何の問題もない、と言い切った。さらに所轄の官庁である総務省高市大臣までが、法律上の書き方についての細々とした規定はない、という強弁に及んできた。
 法令にないのは、法令の基礎になる慣習法上の含意として、広く社会には、領収書は白紙のものを自由にやり取りするものではないと云う了解事項があるからであり、かかる社会的常識や通念に属する事項を条文にないからと言い訳に利用するのは、とかくこの政権の特徴、この政権に固有の言語感覚になっている。
 こうした対応ぶりを見て思い出したのは、先に辞任に追い込まれた舛添東京都都知事が湯河原への公用車使用を追及されて、「まったく問題ではありません」と居直った当初の姿勢である。この場合も、公用車の都と使用規定に具体的な記載がないことをよいことに強弁したもので、それが火に油を注ぐ結果になったことは記憶に新しい。
 領収書問題では、一方では富山の地方議員が厳しい追及を受けている段階で、中央の政界ではこのまま推移するかと思えばば納得できないことである。それ以上に納得できないのは、こうした法律や諸規定の日本語で書かれた文書の読み方に共通する、去年の安保諸法制を廻る攻防を廻り遣り取り以来の、共通する日本語文法感覚である。常々、政治語るものは言葉の専門職であると云い続けているこちらがわの言い方からすれば、まるでそれと背馳する事象がこの国では生じている、と云うことだろうか。
 ちなみに総務省が発行する「国会議員関係政治団体の収支報告の手引き」にはこうあると云う。――「領収書等は支出を受けた者が発行するものであり、支出の目的についても発行者において記載すべきであり、国会議員関係政治団体側で追記することは適当ではありません」
 「・・・手引き」の所管元である総務省の現国務大臣が法令上まったく問題がありません、と言っている、なんとも奇妙で牧歌的であるとしか言いようのない世界風景があの世ならぬこの世で展開されている。
 
 昨年の安否諸法案をめぐる時期においてもそうであったが、彼らのなそうとしていることに一義的に反対をしているわけではない。国のこれからのあり方や国防を廻る重要なあり方を決める論議の最先端に入るもの達の言葉の感性に資質やあり方に鑑みて、疑念を感じざるを得ないのである。
 領収書の白紙記載と云う、ある意味では公文書偽造に当たる行為を、白昼堂々をまかり通らせる非論理と反倫理的行為の背後にあるものは、先の参議院選挙の圧勝の事実であり、現政権の50%を超えるアンケートによる支持率であることを思うと国民の責任をともに感じる。
 
 国の行く末をめぐる大事な諸議論については、所詮国民とは馬鹿なものだから、エリートであるもの達の間で内輪うちわに決めておいた方がよく、既成事実となって、後出しで国民には納得させた方がよい。
 こうなっていました!と既成事実化して示せば、あたかもそれが何十年も前から「普通のこと」であったかのような既視感を生むことができるし、それがスピーディーに物事を進める技術である、と言わんばかりである。残念ながら、これが国民主権の「普通の」、我が国の現実なのである。
 わたくしたちは、戦前と云う時代を暗い照明に照らされたセピア色の時代として想起しがちであるが、山田洋次の映画『小さいおうち』はお伽噺のように東京の中産階級の日常生活と諸群像を描いて、さり気ない日常の、自由でやや感傷的な風景の「普通さ」のなかから戦争という不吉な現実が潜んでいたことを淡々と描いている。
 
 
(追記)
 以前に普天間基地の移設問題に関して、辺野古の埋め立て無効を主張する翁長沖縄県知事と県民の動向に対して国は行政不服審査法と云う法律を盾に対抗する処置をみせたが、もともと、この法律は行政と云う圧倒的に強い権限と権力をもつ組織体に対して、社会的弱者を保護する抵抗権の一種として法文は定められているのに、そうした法の精神とか法の目的と云うことを度外視して、文章のセンテンスから切り出された言語の繋がりだけを自分たちの都合の良いように利用すると云う、法的解釈の恣意性が認められる。法を解釈するものとして、また言葉の専門家としてあり得べからざる言葉の、驚くべき感性なのである。その結果、中央政府と云う圧倒的な強者が弱小の一地方行政組織と県民を強権の名に於いて訴えると云う、荒唐無稽と云うべきか、逆転の構図が生じている。
 こうした言語感覚が話題にならないと云うのも、わが国の法的な世界に固有の慣習的な空気なのだろうか。いまこそ三権分立と司法の名に於ける権威が問われていることは間違いがない。