アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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主語の文脈、ヘーゲル風に アリアドネ・アーカイブスより

主語の文脈、ヘーゲル風に

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  三日ほど前から自動車教習所に通って普通自動二輪の資格に挑戦している。書きたいのはそのことではなくて、最近の交通事故をめぐる趨勢は試験制度も様変わりの状況を想像させて、四十五年ほども前自動車免許を取った頃とは違っているようだ。既に四輪の免許を持っているので道路法等に関する学科試験は免除されていて実技だけなのだが、入学時に「適性試験」というのがあった。なにぶん、この手の試験に慣れていないので、どういう趣旨のものかを理解する前にチャイムが鳴って試験終了となった。((笑))適性試験の出来不出来によって入学が失格となる、と云うわけではなさそうである。
 試験用紙の回収後、即時に試験結果が返却されてきたので、システマティックに電算機等を使った回答だろう。しかし機械が答えるにしては、人間心理に踏み込んだような、ある意味ではもっともらしい回答となっているので感心したことであった。
 
 さてその「回答」なのだが、コンピューターの回答は「あなたの性格には色んなところがあって、一口で言えない」とあります。どうしてこうなったのかと考えると、この種の試験では余り判断力や思惟の能力を働かせて反省的な意識において人間を評価することを目指してはいない。確かに運転免許においては、瞬時の瞬発力や行動のリアクションが生死を分かつことがある。運転免許の試験の適性を評価するためには、反省的意識ではなく、瞬時の即時的な感覚や応答能力が合理的であることは、試験を受けてから試験の目的と云うものを考えた場合に事後的に了解できたことである。
 コンピューターに、あなたの性格には色んなところがあって一口に言えない、と言わせたのは特段わたくしが他より複雑な性格であったためではなく、この種の試験では用いることが合理的ではない「反省的意識」(後述する――対自性)が入り込んで、合目的性の観点からは試験結果を濁らせてしまったということ、反省的意識(対自性)を多用する生活習慣を持っていた人間の場合はこういう試験結果となった、と云う傾向性の問題であるに過ぎない。直感的感性、鋭敏なる感覚的応答力、瞬発的応答性が有意な、生死の境界線を疾走する運転免許のような世界では、反省的意識が働く寄与率には限界があるのである。とはいえ、運転後30分は試運転の意味をも籠めて慎重運転をするとか、その日の体調に寄って車間距離やスピードを反省的意識に添って調整するとか、全くの無意味というわけではない。しかし、生死の境を走り向ける瞬発的応答能力が試される世界では、このような試験方法が適切なのである。
 
 運転免許における適性試験の合理性については理解できた。しかし世の中には教習所の優秀な先生方とは違って勘違いして、この種の試験を万能だと思い込んで、より複雑な入試や社会人としての職業適性に応用できると思っている人がこの国には多いようである。心理学にも色々あって、実験心理学や行動心理学と呼ばれる分野においては、情緒や心理評価の客観性、定量的評価に重きを置くのであるから、つい行動を単純化し、生物レベルの動物心理学のレベルにまで定式化しようとする。その結果わたくしたちの思考や認識の領域を随分と明晰判明なものとし、知識領域的には拡大する、と云う貢献もなしてきたが、何事にも適用できると云う無自覚で無反省な態度を生んでしまった。いわゆる「科学主義」の問題であるが、科学を標準化と細分化と定量定性化を慢心した結果、その無反省的な「普遍主義的」な態度が、合理主義には不可欠である反省的意識を皮肉にも忘れると云う「非科学的」な立場に逆戻りしてしまったのである。今日、科学論なり科学的と称する名の独断は、ドグマと云う名の中世のスコラ的態度をも彷彿とさせて、科学万能の華やかなりし21世紀とは、言語論的には皮肉なことに、「もう一つの中世」と云ってよいほどの無知蒙昧の時代を迎えつつあるのである。
 
 一般論をこれ以上論じても仕方がないのでたとえ話を用いよう。
 ヘーゲルの哲学に、即自、対自、対他、という用語が用いられていると云う。即自とは、ある意味で「ありのままの自分」と云う意味である。この段階では反省的意識が働いていないと云う段階のことなのだが、物事が単純でないのは、自然に還れ!のスローガンを掲げて登場した自然主義ロマン主義の興亡以来、今でも印象主義と云う名で絵画の世界では生きながらえていることである。わたくしの義務教育時の経験からいっても、直感的な個人個人の想いこそ尊いものである、という趣旨のもとに、絵画の学習においては生活画や労働絵画が尊重され、国語の世界では綴り方教室が奨励された。無心な子供の感受性は天才にも匹敵するものがあると教えられ、気宇壮大な気持ちにもなってみたものである。
 しかし世の中に出てみると、それとは全く逆のことが行われていて、唖然とさせられたものであるが、このことは、これ以上は書かない。
 
 さて、その即時のことなのだが、ヘーゲル哲学では無自覚な状態とされているのだが、自然主義ロマン主義的な教育の世界では、素直で自然な世界とされ、この考えが一面的に高揚をみせると、天才にも匹敵するような感受性の世界があるとされたことは、先に述べたとおりである。今日においては、依然として自然主義ロマン主義の影響が残っているので、処世訓的な語用法としては必ずしもヘーゲル的な意味では用いられてはいない。
 特に、即自態と云うあり方は、わたくしたち日本人の感性にはよく馴染むところがあって、いわゆる「本音」と「建て前」の二元論において、「本音」の部分を代表していて、なかなかに手ごわい人格論を形成している。わたくしたち日本人にとっては、ある意味では「建て前」の世界は偽りの世界であり、「本音」の世界にこそ本当の自分、自分の本当らしさがある、というのである。この錯覚を手直しするのは随分と手ごわい作業となる。これは庶民的世界の出来事だけではなくて、例えば戦後の文学的世界の思潮をリードしてきた江藤淳吉本隆明などの論旨も、色々と難しいことを言っているけれども、彼らが世渡り上手の学者・知識人たちを進歩的文化人、観念左翼、として批判したときにはかかる感性的なベースを基盤としている。
 
 しかし「本音」としての自分だけが本当の自分なのであろうか。「本音」とはあるがままの自然態であるかのように見せかけているけれども、一個の抽象ではあるまいか。
 例えば、誰も観ていないところで五万円を拾ったとする。公的機関に届ける人もあれば、懐に納める人もあるだろう。要は行動の差異が大事なのではなく、自分にとって快い行動が人を既定している、という点である。人間の真性と云うものは、一次的には正しいかどうかではなく、そのことをその人が快く感じるかどうかにかかっている。拾った五万円は公的機関に届けなければならないとする人は、そのことが本人にとって快い気持ちを伴うからに過ぎない。良い悪いの価値判断とは別の次元のことなのである。
 芥川龍之介に有名な『蜘蛛の糸』という短編がある。お釈迦様の慈悲で蜘蛛の伝って地獄から脱出しようとするカンダタを追って、多くの罪びとが蜘蛛の糸に縋ろうとした極限状態において、糸が切れては元も子もなしと自分の足元で蜘蛛の糸を切断する利己的な行為は、お釈迦様を嘆かせたのかもしれないが、わたくしたちは不思議とカンダタの行為を責める気持ちにはなれない。わたくしたちが、人間とはそういうものだと了解しているからである。しかし、これが人間の「自然」か、と云われれば必ずしも単純にはいかない。
 
 実を云うと、人間だれしもこうであろうと云う状態は、実はその人自身ではない。誰でもがあり得るエブリーマ性を自分が抽象的一般性代弁している、というに過ぎない。エブリーマン性とは、誰でもが誰でもでありうると云う匿名性の状態、無名性の状態、アニメで云えば「顔なし」の状態である。それはヘーゲルが言うように、真に自分が自分自身になりきれていない状態である。
 それでは、ここに現実的な条件項を一つ入れてみることで判然化する。例えば、その五万円が失った人間にとっては生死を分かつほどの出来事であった、とするのである。ここで再びわたくしたちの判断は分かれる。この段階では、弱肉強食・自分本位の生物学的な即自態としての自分とは違ったレベルで、もうひとつの、実存としての「自分」が前面に出てくる。この段階でひとは初めて、人間らしさと云うものが問われてくるのである。言い換えれば、無名性、匿名性としての、取りかえ可能としてのエブリーマン氏としての自分自身が、固有の、かけがえのない自分自身として、自分自身が自分自身を獲得する段階となって意味変容を遂げている、と考えてよいだろう。人間とは、自分自身が自分自身であることの根拠を問わずにはいられない意味的な存在なのである。
 このように生物学的な次元での自分は、実存としての自分へと意味変容を遂げる。この段階を、自分自身が自分に対面する、という意味で、対自の段階にある、と云うことができるだろう。
 
 しかし人間とは奇妙な存在で、無限なる意志的存在であり、ファウストのように永劫の果てしなき悲劇的階梯を登る!
 人間は本性上、転生する弁証法的な無限意思の変容的存在であるから、到底かかる対自的な低い段階に留まることはできない。もし留まることができるとするならば、――例えば小林秀雄型の我が国の一部の知識人ように、この世に起きるすべての事象は、所詮は己の自意識の問題に過ぎない、と居直って自意識と云う名の牙城に一人立て籠もり、一人孤独な抵抗を永遠に続けると云う行為に意義を見出すと云う裏街道が存在する。かかる依怙地で貧相な自傷的自己満足型の人間は、ファウスト的な普遍的無限的人間意志の世界意思からすれば、やがて世界の無限劇場の舞台からひとり置き去りにされたことを知るであろう。
 
 小林の言うように、仮に所詮は己の自意識の問題に過ぎないとしても、そのように語る他ならぬ自分自身とは誰なのか、そのように語らざるを得ない他ならぬ己自身が他者と云う對象的存在の眼にはどのように映じているのであるのか、それを問うことからより高い意味での対他性の世界が始まる。
 対他的世界に生きる他者とは、半分以上は他者の対他性と云う鏡に映じた自分自身の鏡像である。たとえ他者が自分とって不都合で気に食わない存在であったにしても、それは皮肉なイソップの喩えを思い出させるだけだろう。ある日、骨を銜えた鋭敏で利口な犬が丸木橋を通りかかったことがあってふと下を見ると、橋の下にももう一匹骨を銜えた犬がいたので、それも欲しいと欲を出して吠えたら自分が銜えていた大事な大事な獲物の骨が橋の下に落としてしまった、という有名な「あのお話」である。しかしこの問題はこれにはとどまり得なくて、まだまだその続きがある、――。
 
 対他的世界に生きる他者とは、半分以上は意識にとっての外部性の問題でもある。対他存在とは、意識が届かない世界のことでもある。意識を超えた世界と言い換えてもよい。意識と実在の世界が触れ合う境界域から社会と歴史の世界が始まる、と云ってもよい。この領域は、神や形而上学と云う、日本人が不得手とする世界の問題が始まる次元でもある。
 
 世界の人口の三分の一が飢えていると云うこと、思想や宗教、宗派やイデオロギーの対立で人と人とが殺し合うと云うこと、日本人の合理的な思考態度や長年培われてきた生活慣習や習慣的世界の素朴主義的な自然主義の立場からは到底理解不能の、「外部性」の問題が登場する。
 外部性の問題は、日本人の価値判断から見れば不合理で非合理な世界なのであるか、それとも道理や合法的論理性に合わない世界とは、考えることができない世界であるだけでなくそれ以上の、事実上存在しない世界と考えてあらゆる思考判断を停止することをもって由とするのであるか、かかる日本人のエポケー(判断停止)的なあり方もまた世界から言語論的な意味で問われているのである。
 
 わたくしとは誰であるのか。その不可解なる「私」の存在を廻って、即自、対自、対他存在としての「態」としてのあり方を、主語と云う言語的文脈において考えてみた。
 ついでに言えば、言語は対自的な段階で初めて発生すると考えられるが、それ以前には言語はないのかと云えばそうではなくて、対象領域的・意味指示的な言語が誕生していないと云う意味で、意味的言語の誕生以前の広義の意味での原‐言語はやはり存在するのである。
 また主体や主語が、対他存在の領域にまで変換されると、そこで言語の公共性という問題が登場してくる。言語を自意識の問題としてしか捉え切れないような小林秀雄のようなわが国型の知識人にはかかる洞察的世界は限界概念として現れざるを得ないのであるが、この段階においてはじめて、言葉が人間存在よりも概念的にはより根源的であり本質であり、言語が人間を超えると云う驚くべき事態が出現するのである。
 
 ひとは、言語が自らを語ると云う経験!を目撃することになるのである。ヨハネ福音書冒頭の、――
 
初めに言葉があった。
 言葉は神と共にあった。言葉は神であった。
 この言葉は、初めに神と共にあった。
 万物は言葉によって成った。
 成ったもので、言葉によらずに成ったものは何一つなかった。
 
 とは、そういう意味なのである。
 ここには、言葉が神ですら超えうると云う異端的契機すら仄見えている。