アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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あらためてシェイクスピア四大悲劇について・2 アリアドネ・アーカイブスより

 
 
  シェイクスピアの四大悲劇を、思想の流れとして通読し解釈をする、と云うのはなかなかに困難である。
 既に『マクベス』において、中世的人間像の崩壊と云うものが描かれていた。魔女の予言や神の御前における裁きの観念などから自由になりえない人間を描いて、近代のアポリアを告知した。『マクベス』のテーマは、『ハムレット』を読むことにおいて、よりよく理解される。
 『ハムレット』は様々な人間像が描かれ、それぞれが理不尽な様で没落ないし破滅していく。結局、誰が得をしたのか。国境線付近に不気味な出没を繰り返し、隣国の内紛に乗じて介入しようとしていた、王子フォーテンブラスである。棚からぼた餅とは言うけれども、ハムレットの死を悼む幕切れの長弁舌は空々しい。なぜか理不尽なことばかりがこの世には生じて、理解を絶するような形で歴史は継承されていく。神も仏もあるものか。かかる感慨がより一層典型的に描かれて来るのが『リア王』の世界である。
 退位を考えつつある老王に三人の娘がいて、上の二人は自分の都合だけを言い立て、末の娘だけが孝養を尽くす。事の顛末が決定的な形をとったとき、リア王はなおも気づかず、虚しく孝行娘を見殺しにしてしまう。無残と言うべきか、なんという結末か。いったい、正義と云うものはこの世にあるものなのか。しかし、この身も蓋もない無残な悲劇をみて、わたくしたちは何故か慰めを得るのである。空疎な言葉や空虚な物語よりも、真実の叙述はわたくしたちを慰める。
 『リア王』もまた、古い時代の崩壊を描いたものである。人の善意や誠は報われることなない。むしろわたくしたちの倫理観を逆なでするような形で、歴史はしばしば進行する。しかしながら、あらゆる望みが断たれてあると云う気持ちがわたくしたちを落ち着かせる。わたくしたちは古い時代の価値観の没落を確認し、近代という新しい時代に入ろうとしている。その過渡を描いたのが『マクベス』であり、近代という時代の到来に怯むことなく己の良心の在処を示したのが『ハムレット』である。
 『リア王』は、凡そこの世の中に大義などと云うものはなく、己が誰しも一番可愛い、無残で身も蓋もない結論であるにもかかわらず、これがこれからの世の中の「王道」になるのだから、この作品の結末を否定できない。人間だれしも、適者生存、優勝劣敗の時代の中に置いては、空疎な理想よりも自らの生き方を優先させる思想は、少なくとも最悪ではない。それでは、最悪な出来事とはどういう場合を言うのだろうか、どういう物語になるのだろうか。それが『オセロ』である。
 
 『オセロ』は、適者生存、優勝劣敗の時代の中で、己の価値を優先させ、他者を下敷きにして生き抜いたと云う近代の逞しい物語ではない。
 物事には、原因があり結果があるものだが、この物語には、原因と云うものが殆ど見当たらない。四民平等の近代の社会のヒエラルキーにおいて、オセロが誰でもから愛される天真爛漫さを持っていることが許せない。その妻になるデズデーモナが美貌の持ち主であるとともに、高貴な人柄であると云うことが許せない。なぜなら近代主義の価値観によれば、誰しもが平等でなければならないのであるから、人間はエゴイズムの世界に棲む住人であり、程々に於いて悪であると云うことを是認しない、例外性は市民社会の価値観を相対化して観るがゆえに、この世にあることが許されない。誰しもが平等な価値観で争わなければならない市民社会においては、善人でありながら何ら自分の手を汚すことなく出世をし、あるいは人柄の良さと美貌、それが同時に一人の人物に具現されるなど、許されることではないのである。
 こうして『オセロ』のヒーローもヒロインも、自分に対する敵意や嫌疑を何一つ理解しないまま、無抵抗のまま悲劇の世界に追いやられてしまうのである。
 市民社会と云うものが、外に対する抵抗を失い、同時に超越的価値を自らの内面に自律的規範として反映できないとき、敵意は攻撃性となって現象するほかはなく、この場合攻撃する対象は何でもよく、例外的なものへの抹殺感情として、つまり憎悪として働く。例外的なものとはさしあたり善良であるとか高貴であるとか自分にないものであれば何でもよい、かかる無機的な認識は、それが何故にと問われるべき心理的なものではなく、原因も動機もなく、外にもうちにも行けない自己破壊の力学は、例外的なところにストレスとして働くと云う物理的平衡理論であるに過ぎない。近代市民社会の病弊は、癌が自己増殖の果てに無を実現するように、破壊尽くすまで負の欲望は止むことはない。人間が、利害や打算で動くなどと云う人間観は古いのである。弱肉強食の世界と論理の中には、いまだ自然性と云う倫理が継承されている。しかし目的を有さず、ひたすら悪平等において超越的なものや卓越するものにひたすら敵意を抱く、無になって物質として安定を得たいと云う人類負の願望は、もしかしたら人類が最終段階で生み出した新しい価値観であるのかもしれない。
 
 纏めておこう。
 『リア王』と『マクベス』は、歴史の端境期を描いた悲劇である。これからの時代は己の事情を最優先するもの達が同時に道徳的でもあるような時代であることを認識できないものは没落するほかはない。親に孝養を尽くせなどと云う価値観や、呪いや運命の理論を報じる人間はせいぜい他人に利用されるだけである、と云うことを語っている。
 『リア王』と『マクベス』、価値観から類推すれば、呪術や魔女精霊等、魑魅魍魎の世界に埋没した人間の悲劇を描いたという点で『マクベス』が先頭に立ち、孝養を尽くす等と云う世俗的価値観の崩壊を描いたという点で『リア王』が続くのだと思う。
 
 それでは市民社会の生きる我々はどのような価値観や倫理観を信じ、奉じて生きたらよいのであろうか。市民社会の特徴は、超越的なものの価値を信じない世界であるから、外側から物差しを当てはめて任意に評価すると云う訳にはいかない。しかし内面的価値を奉ずると云っても、定言命法のようなものが存在しないとするならば、局面ごとに己の相対性を歴史の場に於いて晒さなければならず、絶対的なものが不在がゆえに局面ごとに我々は限りなく誤りを犯すだろう。単に誤りを犯すだけでなく、悪は外部に対象的なありかたで存在するのではなく、むしろ己が悪の指標となって時間の中を浮遊し生きているのかもしれない。そうした内外の価値が見極めがたく混淆した中立的な価値観、判断停止の、主体の自縛された、揺れ動く近代の自画像をハムレットが、運命を引き受け一個の決断と云う行為によって己の良心の在処を示し、総体としての悲劇を超克しうると云う実存的モチーフをガルトルードによって描いている。
 『オセロ』は、かかる近代社会が外敵緊張を忘れ、内的な規範を確立できない、市民社会停滞期の心理の力学である。この世界では、強いものが弱いものを踏み台にする、弱肉強食の論理と世界である、と云うだけならまだよい。この世界に於いては、何々のために・・・という目的概念が欠けている。この世界を支配しているのは、悪平等の原理とも云うべき、例外的なものを許さず、人間の平均値を最低レベルで評価し調整しようとする凡庸さの哲学、誰もが最低限度において平等という悪平等の哲学である。