アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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文豪・夏目漱石はそれほど偉いか・(下) 『三四郎』と『それから』 アリアドネ・アーカイブスより

 
 
  夏目漱石の中期の比類なき二つの傑作、『三四郎』と『それから』、この両作に見られる著しいトーンの違い、これをどう説明したらよいだろうか。
 明治41年(1908)の『三四郎』は、東京に生きる明治後期の知識人群像を、三人称客観主義の手法で書いた傑作である。この作品が漱石文学最高の傑作である所以は、いまのところ誰も言っていないことであるし、わたくしの持論に属するものなので、機会があったらその度ごとに、いままでにも執拗に論じてきたのである。『三四郎』は、近代と云う時代との遭遇の後に続く「それから」である。あえて言えばわが国の近代的精神を体現した一群の青年たちの挫折後の消息をか細くも伝える、それに続く「それから」の物語である。今日風に言えば、明治期に固有のポスト・モダーンなのである。明治期の近代がかくも儚いものであったがゆえに三四郎のような世代では、全く記憶の痕跡すらとどめていないほど、過去のものになってしまった、と云うイロニーを読み取らなければこの小説は理解できない。一概に呑気で余裕派風の書き口であるから、ややもすれば内容の深刻さが見落とされがちなのである。同じ時期の肥後熊本におけるポスト・モダーンを素材として提出している『草枕』とは姉妹篇の関係をなしているが、出来栄えにおいて雲泥の差があることも付記しておこう。まるで別人の作かと思えるほどの違いが両作にはある。
 主人公はある九州の田舎から出てきた好青年である。彼の状況を廻って様々の人物が登場し、見え隠れする。代表的な人物は三人、まず有名なヒロインである里見美禰子、なにがしか作者の面影を伝える英語教師・広田先生、それから三四郎を何くれとなく面倒を見てくれる、都会生活の案内人・佐々木与次郎である。一般的に言われているのは、美禰子の思わせぶりな所作に翻弄される田舎の初心な好青年三四郎と云う構図なのだが、独身生活を続けている広田先生にしても、先生に過剰な思い入れをして勝手にシンパを主張している佐々木にしても、この小説に描かれた範囲では本筋に絡んできているわけではない。漱石の面影を幾分伝える広田先生は別としても、人が良いだけでお節介好きの、ノー天気な佐々木青年が、本当のところどういう男であるのか、そんな思っても観たこともない、関心の他の遠景に過ぎなかった人物群像が、読み終えたとたんに不可解に謎めいてくる!と云う、奇妙なミステリーのような味わいを残す作品である。
 つまり『三四郎』はこう云う小説なのである、――小説的世界では描かれてはいないが、理学士・野々宮宗八、広田先生、そして佐々木与次郎までも、何らかの形で里見美禰子と無関係ではないのではないのか、そんあふうに思わせるのである。作者が全能ではなく、三四郎を取り巻く登場人物たちには何か共通の秘密があって、お互いに目配せをしあっているのではないのか、読者だけが蚊帳の外に置かれているような不気味な感じ、読みながらそんな疑心暗鬼にわたくしたち読者を誘いこんでしまう不思議な小説なのである。
※(漱石が愛読していたかもしれないヘンリー・ジェイムズの諸作品を成立させているのはかかる作者の全能性に対する不信である。『ねじの回転』などでは、謎の館に家庭教師として呼び込まれた恋愛願望逞しいオールドミスのヒロインが、自らに見た幻影なのかそれとも真正のオカルト現象なのかを最終的に判断する手掛かりが読者の側に与えられない。さらに登場人物に向けられた不信感は、作者その人の見識にも向けられる。わたくしたちはややもすると、ヘンリー・ジェイムズと云う一人の男について、そして欧米文学界の最大級の数ある作家の中の作家について、著しい人格的品性を欠いた人物として評価しかねない偏見を植え付けられてしまいそうになる。ヘンリー・ジェイムズの文学を苦手とする人はかかる関門が妨げとなっているのであろう。)
 結局、こういうことが言えるのは、作家の主観的意図と作品それ自体が持つ客観的な主張――芸術的形象性とは別物であって、作者が思いも考えもしないようなことを作品それ自体は描き出しているのである。
 最大の驚きとは?――佐々木与次郎、この能天気な男が実は言葉の端から、近代的な愛を経験していたのかもしれないと云う驚きは、先を越されていたのではないのか、と思わせる。愛とは、好いた惚れたではなく、相手のことがある段階から可哀そうに思える、そんな段階が愛にはあると云うのである。途端に、人物を見直すとはこういうことを言うのである。そして一事が万事、佐々木がこうであるならば、何やら独身生活を謳歌しているかもみえる広田先生の生き方も腑に落ちるところがあるし、典型的人物として深くは干渉してこない三四郎の教理の先輩の理学士・野々宮宗八も何やら秘められたドラマを秘めていそうな気もしてくる。そうした疑心暗鬼?が留まるところ登場人物の頭越しに広がっていく、そうしたミステリアスな小説なのである。
 結局、里見美禰子とは誰なのだろうか。漱石から散々聞いてきた、ミステリアスな謎の女はコケットリーだけの女ではない。彼女の知性は愛や恋が好いた惚れただけではないことを知っている。彼女にも意中の人物と呼べる男性群像はあったのかもしれない。しかし、彼女は愛が抒情性だけではないことを知っている。まるで漱石の愛読したジェイン・オースティンの小説のように、衣食住が足りてのちの恋愛だと云うことを知り抜いている。だから彼女は経済的に確かな頼りがいのある男を結局フィアンセに選ぶのである。いくら学があっても漱石を彷彿とさせる独身主義を囲っている広田先生ではあり得ない。大学には席は置いていてもしっかりとした学士の称号を得て何ほどかの人物になり得ると云う保証のない、佐々木与次郎の如きは美禰子にとっては論外なのである。
 しかし美禰子は、自身のそんな冷徹さ、計算高さにもかかわらず、そんな自身の性格的な傾向を補償するかのように、いまうだ世俗に染まらない三四郎を弟のように慈しむ。彼女の近親愛的な慈しみを世間知らずの青年は、自分に少しは気があるのかと無邪気に勘違いをしてしまう。そうしたドン・キホーテのような滑稽さがこの小説の主導な動機なのである。三四郎の思い込みは、滑稽と云うよりもそれを飛び越えて奇想天外あるいは荒唐無稽、と云うか今日日にいう「空気の読めない」、無垢なるものの天性の憐れさに近い。
 里見美禰子とは、「近代」を経験し、「近代」の理想の後の世に出てきた、ポストモダンの女なのであった。つまり近代の青春的挫折を縦横に踏まえて、近代の挫折と云う地獄の業火を掻い潜って転生した、そんな伝説の人物ような、アマゾネス型戦士のひとりなのである。近代という時代を経験し、イデオロギーとしてのその酸いも甘いも知り抜いた、イロニーに満ちた都会の女、都会の片隅にではなく堂々と表通りに咲いてみせた都会の華なのであった。女性の心理を読むことを存外苦手とする漱石如きには永遠の謎として存在するほかはない、そうした女の一人なのであった。
 
 もし、夏目漱石と云う偉大な作家にテーマがあるとするならば、如何にして自らが創造した一登場人物の現存在に作家自身が追い付けるのか、その日その時の時刻は何時か?という形で問うことができよう、――その人物とは云うまでもなく「里見美禰子」と云う名前を持つ名称であるのだが。
 その漱石的営為の端緒的な位置にあるのが名作『それから』なのである。それにしても『三四郎』から『それから』へ、僅か一年ばかりの間に漱石の心境に何が生じたのか。それを明らかにするのはあるいは伝記作者かもしれない、あるいは・・・・・?。
 『それから』において、作家・夏目漱石の作風は一変するのである。
 
 明治42年(1909)の『それから』については今までにも多くの論客をとおして多様にも多角的にも様々に語られ言及されてきたので、手短に次のことだけを述べておこう。
 世の中には三角関係と云うものがある。漱石の場合は一人の女性を廻って二人の男が登場する。明治期のインテリは自らを理性的で利他的であると思っているから、感情のままに生きることを下品だと思っている。そこから思うことと成すことのちぐはぐさが生まれ、『それから』のような厳しい現実に対する目覚めを生むこともあれば、『こころ』のように無限地獄に陥って関わり合うもの達を破滅へ誘う場合もある。
 『それから』の小説的世界で大事なところは、友情の名において一歩譲った青春の記念碑が、時間が経ってみると当時の思いとは異なった現実の、不可解な化学反応的変質を生んでしまったこと、そうした愛の顛末の不都合さ、愛の終始の不幸な結果を眼の前に見せつけられて、自分でも同情しているのか愛が復活を遂げつつあるのかが分からない、さあどうする!と問われ自問自答に追い詰められることだろう。つまり愛における「自然」を「友情」などと云う美辞麗句で裏切った場合に、代助のように非常にまじめで多感である種の才能と感性に恵まれた男の場合には、どのような報復手段が待ち受けていたか、と云うのが『それから』のテーマなのである。それが、時代柄、社会的制裁と云う形を露骨に暗示して終わると云うところに、この小説の戦慄的な意味がある。
 『それから』の主人公長井代助を夏目漱石が創造した人物の中でも最も魅力ある男たらしめているのは、彼が世の中の倫理や道徳に逆らってでも、自然の論理に従うべき勇気と耳を持っていた点だろう。いままであらゆる意味で衣食住足りて自由気ままに過ごしてきたお坊ちゃん育ちの優柔不断の「高等遊民」が、愛の自然の名において、自活するために宛てもない就職運動に挺身するために世の中と云う名の大海に乗り出していくところでこの小説は終わっている。
 もはや大学を出ていると云うだけでは十分でない世の中が到来してきている。コネや伝手も何もないところで、まるで初心な青年のような気持ちになって、恋人と自分たち二人の食い扶持を支えようと、不可能であるかも知れない手強い現実の壁に突進していく。この幕切れは、トーマス・マンの『魔の山』の戦場の硝煙棚引く終結部を何やら彷彿とさせる、新しい時代との遭遇の物語なのである。
 しかし漱石の死後、それに続く、「新しき時代」の正体とは何と無残で非情な日本の現実であったろうか。