アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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『こころ』に描かれなかった残されたものたちの「それから」――漱石『こころ』を読み直す アリアドネ・アーカイブスより

 
 
 本作の出版に先立って漱石はこう語っているそうである。
「自己の心を捕えんと欲する人々に、人間の心を捕え得たるこの作物を奨む。」
 たしかに、心を捕えたる作品であるが、読み返してみても、遣りきれなさが残る。なぜ、『こころ』の世界には救いがないのだろうか。その理由の一つは、漱石の考え方や生き方の中に、超越の論理がないことだと書いておいたけれども、――自分でも思うのですが――これは神を持たないから救われないのだと云う教条主義的なコメントと同様で、現に、芥川の『蜘蛛の糸』のカンダタのように、娑婆と云う俗世間で生き死にする大多数の人間にとっては関わりのない論理と云いうほかはなく、漱石が国民作家と云われてきた経緯は、かかる大多数の民の心情とそう遠くはない世界で、ともに生きて救いもなく、希望もなく、あらゆる超越項を拒否して、絶望の中に死んだある種の潔さのような感じにある、と云う漱石学としての評価の理由を納得できないわけではない。
 希望がない、絶望のみが残されると云う状況はまた、それ以下の段階に降りようがない、それ以上落ち様がない、そこが実存の底であると云うことにおいて、ある種の人びとには救いの感じにも似たものが感じられるからである。近代以降、日本人が味わってきた悲哀、民族としての哀しみの感情に、もっとも妥当で適切な表現を与えたと云う意味で、『こころ』は今後も民族的な規模において読み継がれていく名作の一つであるには違いないだろう。
 
 『こころ』とはこういう物語であった。
 幼年期に、のちに語り手によつて「先生」と呼ばれる主人公は幼くして叔父夫婦のために家屋敷と財産の大半を奪い取られてしまう。金によって、通常は温和な人間が如何に一変するものであるか、しかし幼き頃の「先生」は、この人間不信の感情を持ち続けるためには余りにも高貴な性格であったために、後に、東京の大学に出てからも、同郷の経済的に困窮の状態に置かれていた学友Kを見るにつけ、良かれと思って自分の下宿に同宿者として受け入れる。Kは裕福な寺の次男坊で、当時は長男が家を継ぐ伝統が確固としてあったため多くの場合は檀家が話し合いなどをして、養子縁組を取り持つと云う慣習が所によってはあったと云う。しかしKにはかかる封建的慣習からくる柵みには反抗する知性と自尊の思いが余りにも強く、東京に出て監視の目が届かなくなると無断で実家や養家の希望とは違った分野の学問の道を選んでいささかも動じる風ではない。若き日の「先生」は、そうしたKの自我自尊の果断なき性格に一抹の世間的危惧を憶えつつも、反面において友の気概を羨ましくも思う。自分には到底得られない強い性格に尊敬も感じ、友情から心情的な支持の想いを伝える。周囲から設定された安寧と社会的安定化の道に逆らうかのように、天涯孤独の境遇を自らの決断で選びとって行かざるを得ない不遇、――もし人生と云う道に分岐点と云うものがあれば躊躇うことなく、より困難な方を選ばざるを得ない破滅的で危うい理念型のKの生き方を、見捨てられなかったのだと思う。
 そうした美しい二人の友情の物語が反転するのは、同じ屋根の下で暮らす下宿屋の娘に対する慕情を通じてである。
 その下宿屋と云うのが、母と娘の二人だけの戦没軍人の父なき一家なのである。こうした富国強兵化の明治期の日本で生み出された母子家庭のひとつが、下宿人を受け入れて、生計の主たる細目として営業しながら、他方では相応しいと思える相手がいたならば父親のない娘を縁組させたいと願っていることは当然のことだろう。この一家には有力な知人や縁故関係があるようにも描かれていない。かかる婿取りを当然のように前提し、待ち構えているような家族構成の中に、卒業間際のうら若き二人の独身男性が二人同じ家の下に住むことになると云うのは、既にドラマを予感させる。であるから、下宿の女将は「先生」から相談を受けた時でも、世間知と女性特有の勘を働かして危惧を感じ、また反対を口に出してみもするのだが、顧客の立場にある「先生」の正義感に結局は押し切られてしまう。
 そして悲劇は当然のことのようにして起きる。ひとつは「先生」の恋愛や結婚と云う事態に対して持つ感情の優柔不断さ、母と娘がそのことを切望しているにもかかわらず、終始釈然とせず、未だ結婚は自分には早すぎると思っている。それで見込みがないと悟ったのか母と娘はKの方にもあいまいで二面的な態度を見せざるを得ない。この母娘にとっては、眼先に控えている近未来の現実的な諸問題、――娘にとっては適齢期は一度しかないと云うこと、母親にとっては今後確実に到来するであろう老後の不安定さに何らかの形式を与えたいと云う意味でも、そう待てない問題なのである。もちろん、母親としては娘の幸せを願うばかりで自分も玉の輿に乗ろうと思っていたわけではない。玉の輿などと云う語感から程遠いほどの細やかな庶民の願いなのである。この母娘の苦渋が生活の苦労を知らない「先生」には当然のことながら分からないようだ。
 他方、故郷の養家や実家の期待を裏切り、唯我独尊の天涯孤独のまま、家庭の温かさからも遠ざかり、他方では経済的にも孤立無援となって学資も途絶えがちのKにとって、友が与えてくれた無言の恩恵もさりながら、母娘の醸し出す家庭団欒の一幅の風景は天国の花園のようにも思えただろう。自分の荒れてささくれがちの気持ちが癒されていくのを感じたであろうか。母娘の好意やたまさかの親切を愛と取り違えても責めることはできないだろう。あるいは母娘にしてみれば、「先生」にまるで見込みがないのであれば次善の候補を考えたとしても、明治時代の母子家庭の姿勢を責めることはできないだろう。
 他方、逃した獲物は大きいと云うイソップの説話のように、それほど評価していたわけでもない母娘の価値が「先生」の眼にはライバルが生じた段階から掛け替えのないものに見えてくると云うから不思議である。決して大きくはない同じ屋根の下に遠からず顔と顔を合わせて日々暮らすと云う緊迫した疑似家族的一体感の上に、アンビバレンツの感情は堪えがたいまでに沸騰する。それでいてKは、「先生」に経済的に依存している今までの諸経緯や、「先生」から受けてきた事情によって果断な行動をとることが出来ない。
 また当時のKは、自尊と自負心のみでは世間を渡ることの困難を骨の髄まで重く思い知らされた時期にあり、学門精進の道においても行き詰まり、同時にかかる物理的・心理的の両面において不如意な時期に、例のお嬢さんとの心理的な関係においても視界不良の、ある意味で八方ふさがりの状態にあった。そうしたKの苦渋を知りつつ、まるで意識下にあって積年の劣等感は本人の自覚的な意識を超えて蠢きをはじめる。心理的に劣勢なKに駄目押しをするかのように「先生」は、向上心のないものは駄目だ!と言ってのける。この台詞こそ、常々「先生」が友人Kから受けていた評価だったからである。
 
 「先生」はかかるKの境遇を知りながら、母親に切迫した口調で掛け合い、出し抜いて婚約の承諾を受けてしまう。経済的に遥かに豊かで、性格的に温和な「先生」の申し出は最初から想定され期待され、親子の脳裏に描かれていた理想であったから、素人下宿屋の母娘に不満があるわけがない。最初から望んでいた通りの結末になったと云えば云えるのである。しかし万事めでたしの顛末の結果にK情感が絡んでいた。
 こうして事態が徐々に明らかになると、Kの間断なき性格は躊躇うことなく自裁の死を選ぶ。向上心の云々・・・の、例の台詞が決め手になったのは間違いのないことだろう。Kの自裁の部屋は、襖や家具調度を血で染めると云う実際は血染めの格天井にもにて凄惨なものがあった。この死の模様を描写するに、漱石は及び腰の姿勢に終始するのだが、――端的に言えばKは恨みを残して死んだのである。しかし残された遺書にはこのことが一つも書かれていなくて、全てはKが自分の至らなさや自己の責任において死んだかのように書かれている。大事なところがぼかされて秘密はKがあの世に持って行ってしまっているのである。しかしこの事態から「先生」は逆に救われたと思うのである。作者の漱石はおくびにも見せていないけれども、下宿屋の母娘も実際のところは救われたと思ったのではないだろうか。母娘は生涯を通じて知らない振りに終始するのであるが。こういう肝心なところを漱石が書かないから『こころ』は謎のような小説になったのである。
 
 こうして「先生」と妻の二人の日常の時間の「それから」は、『門』のような、閉ざされた秘密の廻りを廻る、お互いの負い目を庇い合う諦念に似た時間が流れたのではなかろうか。また、なにゆえにか若いに似ず、偶然の邂逅からこの淋しき夫妻に近づいてきた語り手「私」に、妻もまた真相を語らないのである。作品に関しては全能であるべきはずの漱石もまた、まるで自分もまた登場人物の一人であるにすぎないとでも言うかのように自己韜晦を貫いているので、読者は何一つ作者から、あるいは作品世界から言質をとることはできない。漱石の取った態度は作家としてはフェアとは言えないであろう。
 こうして明治天皇崩御乃木希典事件を迎えることになる。
 
 明治45年、Kに対する負い目が「先生」の生存の様式を既定したように、はからずも、明治大帝の崩御とそれに続く乃木希典事件の衝撃は、漱石の意図を超えて拡大した。漱石が『こころ』をある程度の自信をもって問うたのは大正3年のことである。明治45年から大正3年の間に、日本民族の中で大きな変化が起きたのである。
 漱石がそう読まれるのを願っていなかったにも関わらず、『こころ』は負い目を基軸とした死の儀礼の書として歴史のベストセラーとなった。乃木希典の殉死行為が明確な原因と結果の論理では解けなかったように、漱石の『こころ』もまた「先生」の死に不可解さを残した。ともに論理的に不可解であるがゆえに、何にでも適用可能の普遍性、神秘めかした一般性を備えていたのである。しかしこの一般性は名前を持たない、利用可能の白い無記名の不吉なカンバスとして、天皇国民国家の利用可能性として不穏な未来に向かって開かれていた。
 国民が国民教育をとおして、「赤心」の心でもって皇室を仰ぎ見ると云う濃密な心理の相互反復作用の中で生を受けて、天皇を赤子のような気持ちで慕うと云う疑似
家族的な国民感情天皇国民国家に人為的に利用され取り込まれ形成されていく中で、この事例はともに富国強兵と愛国を基軸とする国家体制の一体感の方向へと巧みに利用され、列強相互間の適者生存の非情な悲憤慷慨と憂国の国粋的雰囲気のなかで愛国者像を、神国日本の完全燃焼型の生の、極限の理想形として語られるようになるのである。
 
 しかしこのことだけにとどまらずに、戦後、『こころ』は巧みに生き延びて、戦中戦後を一貫する国策としての利用された歴史にもかかわらず、とりあえずは現在、透明な言語の連なりとしてわたくしたちの眼前に提示されてある。わたくしたちは読み方や解釈の改変をとおして、わたくしたちは歴史の流れのなかから、それがいとも小さき抵抗の細やかな営為に過ぎなかろうとも、個的自立の応答を、心理的波動の抵抗を歴史的時空を貫く漣のように、持続的に途絶えることなく、歴史の側に反作用として伝えることも可能なのである。それが言葉による抵抗と云うことの意味の原義である。
 わたくしはこの度読み返してみて、人にものを施すと云うことの難しさ、同情心の困難さを感じた。とくにKのような、境遇が不遇で孤立無援の、高い自尊心と独立独歩型の人間においては、同情は相手の尊厳を傷つける。にもかかわらず、わたくしたちはまた人生の別の局面で同じ事態に直面したときに、同じような判断を下すのではなかろうか。ことほど左様にもわたくしたちには進歩がなく、正負の両面において愚かなのである。しかし愚かさにも恥ずべきものとそうでないものとがあって、少なくともわたくしたちは信念をもって、『こころ』の「先生」の場合は後者であった、と言ってあげることはできるだろう。
 『こころ』の小説としての構成は、通常の語りの小説的世界の中に「先生」の遺書がそのままの形で挿入されると云う複式の構造において、解釈の多元性を許容する構成となっている。いわばコスモスの中にもう一つミクロコスモスがあり、乱反射する両界の無限の照合関係を維持するかのような、世界構造となっているのである。
 『こころ』はこうした複式の構造を生かすことで、「先生」の遺書は初めて、「私」と云う語り手の眼に触れ晒されると云う意味において新しい事態を招来し、悲劇は悲劇のままに、人間の愚かさは愚かさのままに、第三者の視点と云う名の外部の空気が酸欠状態に近い坑道の奥深く流入したことはまちがいない。この新鮮な空気が、新鮮な第三者的視点がもたらした外部から聴こえてくる途絶えがちとはいえ気流の高鳴る鳴る音と、語り手「私」の語りと自答のなかで暖められた人気ある眼差しの温もりのなかで、「悲劇」は溶解作用を、確かな浄化作用を受けたかのか否か、しかし『こころ』は語らない。しかし『こころ』が読み終わったところから、「先生」のモノローグは「私」の世界に転移し転生した筈であり、語り手「私」の性格を考えた場合に今までの経緯からしても、沈黙の不可視の内的モノローグは夫人との対話に、つまり可視性の端緒に繋がっていったのではないのだろうか。ここにもう一つの恋愛事件を想定することは可能だが、結末は時間と歴史の薄明の中に消え隠れて杳として知られない。しかし、わたくしには狂気で夫を失った未亡人クララ・シューマンブラームスの関係のように、以後も変わることなく夫人の生を支えただろうと云うことは容易に想像できる。
 『こころ』が描かなかった「それから」を想像してみることは、少なくとも乃木希典事件に対する文豪・夏目漱石の同時代史としての「批評」であったことは、間違いのないことだろう。それが雄弁に語られたものであったかどうかは別にしても。