アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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宗教的社会と道徳社会 アリアドネ・アーカイブスより

宗教的社会と道徳社会

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 もういちど、ギリシア悲劇のアンチゴネーの物語を内容上、復習しておきます。
 
父オイディップスの死後、アンティゴネ―は、テーバイの王位を廻って相争う兄弟の死の一方を、政治的な状況の如何にも関わらず、敗者のために、家族の一員として弔うために、死者に砂をかけると云う、反体制的な行為をあえてする。その結果、アンティゴネ―はクレオンの方からは憎からず思われる身でありながら、見せしめのために牢獄に囚われる身となり、自らの下した不合理とも見える選択を廻って、再度、再再度クレオンの側から翻意を迫られるが、肯んじえずに牢獄の中での孤独な次回と云う行為を選ぶ、また、彼女の婚約者でもあったクレオンの息子ハイモーンもまた後を追い、ハイモーンの母も息子の死を悼んであとを追う、と云うものです。
 
 
 これを政治的利害か家族の情愛か、世俗の権力か慣習化された伝統的価値観か、政治的価値観か宗教的価値観か、と問うこともできます。道徳的価値観の相対性に己の拠り所を認める日本の伝統的社会においては、なかなかに、かような問いがかような形で、突出する形で問われることは稀でしょう。例外として赤穂浪士の美談や近松もの、あるいは遠藤周作の『沈黙』のようなものがありはしますが、例外です。(芸術・文化論としては例外ではなく、規範的である。)
 
 
 さて、ここから引き比べて思うことは、かかる人間の実存的問いが屹立した形で問われることのない日本は幸せな社会であるか、という点であります。神のような、絶対的な、一元的な価値が存在しないので、世俗のことは世俗のこととして、ある意味においては、是々非々で対応する。だから、世界の半分以上の民族が、宗教の違いと云う目に見えないもののために相争うと云う構図が理解できない、あるいは単なる観念論的な説明のために命を賭すると云う、愚を演じなくて済む、とも。そこから翻って、日本人の価値相対論、あるいは非観念論的寛容さの精神をもって21世紀の、相争う諸国間の間に割って行って、平和国家の理念の名に於いて、麗しき愛と調和を寿ぐべきではないのか、とも。
 
 
 しかし、かかる平和と民主主義的な美辞麗句が文法だけの問題に終わりそううなことは誰でもが知っている。国際関係は、ことほど左様に生易しいものではないと、訳知り顔に云う人もいる。
 
 この問題は難しいので先延ばしすることとして、次に宗教的社会と道徳社会を比べた場合に、後者の方が本当に寛容の精神と云うものを理解しているのか、と云うことについても考えてみる。
 
 
 分かりやすく考えれば、価値相対主義とは静態的な諸価値が永遠に平和共存するあり方がある一方で、価値がこの世の世界に限定されるのであるから、中心的価値を欠いた諸価値が、再配置と再構成を要求して相争う、力学の場とも考えることが出来る。つまり諸価値と云う神々が相争う、神々の黄昏の時代とも見える。世界の歴史的趨勢が、何らかの超越的な価値観の権威が揺らいで、世俗的な富と権力を求める傾向にあるとすれば、「世界の日本化」現象と云う形で、皮肉なことに日本が世界をリードする、と云うことも可能であるかに見える。もちろん、これは冗談で言っているのである。
 
 
 さて、一等最初の政治と宗教、世俗的価値観と霊的な権威と云うものの関係を比較、考えた場合の問題に戻ると、宗教的価値観が、とりわけ近代以降においては一神教的価値観がもたらした不寛容の精神が国際社会を混乱させつつある、と云うことは指摘されていることでもある。それで一神教的な神概念を欠いた、日本のような世俗社会が良いかと云うと、そのような説が国際諸国間に於いて指導的な役割を果たしリードしたとも聴かない。むしろ国際社会では、信念を欠いた人たち、作り笑いを浮かべる人たちとして、軽んじられているとも聴く。個人としてはともかく、民族として敬意を払われたと云う話は、寡聞にして聴かないのである。
 
 
 日本人の主体性と云うものを考えた場合に、これはどうしたものであろうか。
 
 価値相対主義とは、諸価値観の相対的な力関係によって、再配置と再配分が行われる合理的なシステムであるばかりではなく、必然的に世界の世界性を世俗的社会の方向へと一元的に縮小させる過程で、諸価値観が相争う世界の外側に、非合理な「外部」世界を生み出してしまうのではなかろうか。神々の相争う世界の「外側」に、いまは忘れてしまったかに見える、世界を支える巨人族の存在があったことを思い出すのではなかろうか。人類史の根源に位置する巨人族こそ、「外部」の存在なのである。
 
 
 「外部」を意識するようになると、神々は自らも相争うと云う劇を演じながらも、「外部」に対しては「連合」すると云う、紆余曲折に満ちたイロニーを演ずることになる。この時「外部」の求心的引力に対抗するためには、内部に、それに相当する疑似的な「悪者」を、外に弾き出すべき遠心力として措定しなければ同心円的社会は力学的に安定しない。それで共同体的な「内部」には、常に犠牲とされるべき祭儀と云う行為が過去前提されてきたのである。かっての日本の村落社会において前提されてきた村社会の掟、残酷さである。村社会の掟とは、共同体の「外部」が生み出す求心的引力と釣り合うために要求される遠心力なのである。
 
 
 確かに、戦後の日本は、保守派の論客が言うように国家の役割を軽視してきた。それは国家を厭う過去の経験からくる心理的アレルギーも関係していたであろう。しかし高度資本主義と高度管理化社会の中に積極的な因子として取り込まれる過程で、日本の社会は一見平和に見えながら、その外見は優柔不断に見えながら、内実においては寛容な精神を育てて来たか、と云うと疑問なしとしない。
 
 むしろ、超越を失うことによって平準化された価値平等の世界の中で、ある種の不寛容がまかり通る。日本社会は価値の一元的社会が持つ残酷さ、冷酷さを知らないと云う意味で積極的な価値を有するが、反面、内向きの不寛容さについては自覚的になることができないと云う点に民族としての不全性を残す。価値一元化社会あるいは一神教的社会は、冷徹でありある意味で残酷さを発揮するけれども、そのことについて知的レベルの於いては十分に自覚的である。しかし不寛容な社会である日本はその点を終には理解しえないのである。つまり言葉の有する意義について自覚的ではあり得ない民族は、その正反相半ばする長所を有していても、その点についてだけでも国際諸国間に於いて指導的立場に仮にでも自らを仮託すると云うことがありえそうもないのである。
 
 日本民族のキャパシティの規模は、自らの精神を健全であり、判断においては合理的であると信じ込んでいる点にこそ問題があると云う風に理解すべきではなかろうか。世界史の過程においては合理的なものの考え方が通用する場面もあるけれども、21世紀にもなって理想に向かって行進していると思えた啓蒙の精神と国際社会はとても論理と合理性を基本として動いているようには思えないからである。非合理なものに対して免疫力を欠いた精神はそのキャパシティと相応の関係があると考えるすれば、日本の社会は知性の低い官僚と日本国民が思っているよりは可成り重症であるのかもしれない。