アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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人生の四季を生きる!――自己実現の諸段階についての一考察 アリアドネ・アーカイブスより

 
 
 ヒューマニスティックな現象としての人間も、生物種としての人(ヒト)としての存在も、外部環境世界と云うものとの関係性のなかで、様々な生の様態と思惟の諸段階のヒエラルキーを示す。人間と外部の対象的世界との関係は、要約すれば概略、――大雑把に考えれば以下の三つの段階になるように想われる。
 ⑴ 第一段階 この時期の人間は、外界に依存して生きる。いまだ自らに固有な論理もなければ外界の現実と呼ばれる構造物の規模や条件に付いても意識することはない。生かされてある環境や生存の条件次第で、自らを満たされていると感じることもできるし、不幸せであると感じることもできる。外部に向かって働きかけて行こうと云う意識がないか、微弱である。
  ⑵ 第二段階 外界を自らとは異なった現実として意識し、意識すると云いう過程の中で自我観念が成立する。人は外界に働きかけ自我との同一性の手がかりを得ようと努力する。他方、自我は人間に自ずから備わった論理で世界を読み解こうとする。しかし、そこには困難がある。世の中は決して自分の思い通りにはならない。人生と云う町には「おもい通り」と云う通りはない。
 ⑶ 第三段階 挫折した自我は現実を取り込み、現実の論理を学び取り、行為と云う形式で現実的可能性の最大化を図ろうとする。本来自我が持っていた自然性は、とりあえずは脇に避けられ、現実的な成果のなかに自己実現を読み取ろうとする。この段階で人は満足することもあれば満足しないこともある。前者を「人」と云い、後者を「人間」と云う。
 あなたはいま現在、どの段階にありますか。
 
【解 説】
 ⑴第一段階 そもそもこの世に生存が許されるためには、あるいは生を受けて生命がある種の継続性として保全されるためには、生かされてある環境と云うものがある。人は環境の中で、生を営む。生を保証している目に見えない枠組みが可視化されて経験される時、それが生の基節点となって適者生存のために飛躍を用意し、あるいは最適の現実的変態性を求めて流転するか、端的にそれが生命の限界となる。生の条件を受け入れないことは多くの場合、死を意味する。
 人は生の条件を意識して生きることもしないで生きることもできる。生の条件や経験を成り立たせている枠組みを意識しないのであれば、生の条件のなかの世界がそのままその人の宇宙と等しくなる。宇宙の「外部」と云う観念は原理的に成立しない。
 後者の場合、人が条件付けられた生と云うものを意識して生きる場合には、言語と行為が誕生する。言語と行為は一体である。しかしながら、生の枠組みを意識化し、抽象的な概念を払拭して、対象的言語として、つまり世界が特定の対象性として意識されるようになると、即自態なり対自態としては⑵の世界が、対自態なり対他性としては⑶の世界に移行する。
 
 ⑵第二段階 生の枠組みの意識下の構造は、とりあえずは自我と意識の誕生と云う形で現れる。
 意識は外界に自己を投影し、あらゆる局面で全一観を達しようとするが、ことごとく外界の諸条件に阻まれる。自我はことごとく、自己同一性の試みに失敗する。
 この段階でも言語と行為とが成立するがそれはプリミティブな段階に留まり、行為や行動のみが卓越し、言語は意識以前の無意識や非明示的言語の段階に留まり、有力な寄与を自我に対して成し得ない。しかしながら、第二段階での自我の敗北感は、自我なり自己を語る形成的言語として一定の寄与を果たす。
 本段階は個人差があり、顕著に現れる場合もあるが、それと意識されることなく、いきなり⑶の段階に移行することもある。むしろ⑵の段階は必須的なものとは考えられず、省略される場合も多いようである。しかしながら、⑵の段階を経由するかしないかは、⑶の段階以降の、形而上学的な不可視の世界を考える場合には大変に重要な意味を持ってくる、と云うことを付け加えておきたい。
 人生の継続性としての価値に於いて、原理的に遠回りすると云う考え方なり論理と云うものはない。生に於いて迂回路、あるいは塔回りすると云う論理はそれなりの理由があるのである。
 
 ⑶第三段階 この段階の自我は、自我の限界と生の様式、あらゆる経験的世界を成り立たせている条件と、自己の欲望を調停しようとする意思である。自己は、自我を押し通すことの不利を悟り、むしろ生と経験的世界を成り立たせている条件の詳細を究明し、最大の効果を引き出すべくそれを生かそうとする。この段階で初めて言語は社会的言語の体裁をとる。と云うよりも、社会的言語とは本来の言語の意味であって、それ以外に言語の名を冠する様態などはないのであるが。
 自己は、外的世界や外部の条件の最適性を推し量り、最大効果を引き出そうとする。外部世界の成果のなかに自己実現の証を見ようとする。
 
 以上⑴から⑶の段階を概略、通覧してきたが、いわゆる「人間」的世界として名付けられる経験世界の成立はこの三段階の諸段階のいずれかに尽きている。
 大事なことであるからもう一度まとめておきましょう。
 ⑴第一段階 人は、与えられた対象的世界のなかで、それを条件付けられたものといしきするかいなかに関わらず、それを「世界」として無自覚に生きる。この世界ではコミュニケーションとしての言語はあるけれども、意味論としての言語、世界空間の意味文節作用としての言語はいまだ誕生していない。
 ⑵第二段階 人は、自らの論理に従って自意識と云う論理を発達させる。この段階の意識は、意識の「外部」と云う観念を未だ持たない。内部と外部世界の根本的な不一致、自意識なり観念論的理論理性はことごとく自己同一性の試みに失敗する。
 ⑶第三段階 意識は、自意識の段階を経て、対自、対多の諸段階を経て、外部の対象的世界に働きかけ、自らとは異なった外部世界の論理を読み取り、対自的自己意識の論理との間を調停しようとする。あるいは一歩進んで、対象的世界における具体的成果のなかに己の自己実現の証を見ようとする。つまり意識の諸段階の履歴としては大人の論理であると云うことが出来る。また、内在的自意識の論理であるモノローグとしての言語とは区別された形で、初めて言語と云う観念が行為として成立する。
 かく、意識の自己遍歴史を通覧して、各自は己がどの段階、どの階級に属しているのかを考えてみるのも一興であろう。かく生様式の広大なパースペクティーヴにおいて観ずることで、自らの人生と云う有限的なありかたから広く解放することが出来るのである。人間存在が、根本的には無限であることが、少なくとも思惟的には理解できるはずである。
 さて、次に、それではこの三つの諸段階以降につづく世界はあるのだろうか、あるとすればそれはどういう世界、どういう生の形式の様態なのであろうか。
 
 ⑷第四段階 いままで行為や行動として考えてきた人間の意欲を伴った所作性一般は、むしろ「労働」と云うべきものであった。労働とは、人間の行為一般が「経験」として、眼に見える成果として、階級性として、社会的諸関係性として、此岸性の相貌のもとに現れる現象である。ところで人間的行為や行動は労働概念一般に還元できない。マルクス主義的概念では、人間的行為の相を労働概念と同一視するから、マルク主主義的人間概念は有意な学問的営為ではあるが、生の諸条件を廻る形而上学的冒険の旅においては、論理構造としてはこの段階で行き止まりとなる。
 それではこれから本題に入るが、⑴から⑶段階の先に現れる諸段階には何があるか、と云えば――例えば、天才たちの存在がある。労働概念を超えた行為や行動、あらゆる所作的な様態を考える場合に、⑵の段階における自我や自己の挫折の経験を見て来た。あるいは⑶の段階における、生の枠組みや条件に対する、言語による明示化、可視化と云う行為をとおして、自我と外部世界との関係を様々に見てきたわけである。ところが天才たちの段階においては、極限態の在り方としては自我と外部世界の条件、世界の枠組み的機構が一致する。天才が、かくあれかし!と願うのでわれば、そのような世界が成立するのである。したがって、天才の世界と云うものは人間学一般の領域を逸脱したものとして理解したほうが合理的に説明がつく。
 ここに漠然と天才たちと云う言い方をしたが、これらの者たちの間には、偉人や巨人、あるいは宗教的世界では聖者や福者などと云う人たちも含まれる。場合によってはディケンズが『クリスマス・キャロル』において描いたように早世したものたち、聖書が描くような社会的弱者、難病・奇病、そして不具者たちが含まれることもある。
 ⑷の段階に属するもの達は、人間以下のものたちであるとともに、人間以上のもの達であり得る。
 
 ⑸第五段階 さて、聖者や天才たちの世界の先にはまだ何かあるのか。人生の奥の院のそのさらに先にはどのような世界が開けているのであるか。
 聖者や天才たちの世界は、生の条件づけられた様態としては意思と外部の条件が一致する、と云っても、自己実現や経験的世界の形成に失敗することもある。それは彼らが肉体と云う条件を備えているからである。⑷の段階の様々な階梯的諸相は、精神と肉体の配分比にある。極限態として、肉体的条件がゼロとなる段階を想定すると、それが天使のような存在者を想定することになる。天使の存在を信じるか否かと云う問題を考えているのではなく、仮に精神と肉体と云う人間的生の様式を想定する場合に、肉体的条件をゼロとすれば天使のような存在者の存在を想定することの方が合理的であり、逆に精神的条件をゼロとすればアメーバ様(よう)のような存在者の世界が成立する、と云うことを言いたいのである。
 つまり、人間がこの世に生を受け、人間的生の様式の階梯的諸段階を考える場合に、一方の端はアメーバ様であり、他方の端が天使のような存在が住する世界である、と云っているのである。人間はアメーバと天使と云う両天秤にかけられた宇宙的規模の、梃子の支点に位置する存在、中間的な存在である、と云う意味である。
 人間と云う梃子の原理を中心に宇宙は構成されれている。宇宙の中間者にはそれなりの役割、宇宙論的な意味があるはずである。新しい人間中心主義を主張したい。
 
 さて⑸の天使たちの世界の先にはなにがあるか。見ることも聴くことも語ることもできないが、単に思惟的には空想することができる。語りえないものとしての、神である、神の存在である。
 ここでも神を信じるか否かと云う議論ではなく、中間者としての人間の宇宙論的な序列を構想する場合に、神を想定したほうが合理的に説明がつく、と云うことを主張したいに過ぎない。
 
 何か中世のスコラじみた無味乾燥の議論、あるいは黴の生えかかった有閑人の戯言とも思えようが、21世紀に入って、世界の紛争的要因がますます顕著に、宗教的世界を背景として現れることを思えば、宗教的世界の存在を信ずるとか信じないとか、信仰上の問題や宗派の課題がプライベートな次元にとどまりえない意味を持ち始めてきている。
 宗教的議論を毛嫌いするのではなく、宗教的世界と遭遇した場合に免疫力を蓄えておくと云う意味でも、現象を超えた世界を古い時代の遺物、形而上学的世界の問題に過ぎないと一蹴するのではなく、宗教的世界の害悪を無害化するために、可視化や可聴化を超えた、いわゆる経験的世界を超えた世界について改めて考えておくと云う姿勢が必要なことになる。このような不安定さと不確定性に満ちた世の中を、やがて迎えようとしている予感のなかに、わたくしたちはある。