アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

アリアドネ会修道院附属図書館・アネックス一号館 本館はこちら→ https://ameblo.jp/03200516-0813  検索はhttps://www.yahoo.co.jp/が良好です。

アレクシェービッチ、フクシマで日本人に会う アリアドネ・アーカイブスより

 
 
      ”フクシマ、
そこで人々と会い、話したかった。”
 
 
 
 前稿では触れなかった福島県小高のお魚屋さんの話をします。小高は規制が解除され、復帰、復興、帰郷が施策として推進される最中、帰還を果たした人は一割にも満たないと云われています。そのなかで福島の人びとは、実家を解体して思いを振り切る人、外に出て生活の基盤を造りながらも実家の家を解体できずに心が揺れ続ける人々、そのなかでそのお魚屋さんは心機一転、住めなくなった家を解体して親子三代続いた魚屋を大々的に復興します。ねじり鉢巻きが似合いそうな、北島三郎とどこか似ている気風の良い方です。
 彼は国や行政の施策を丸ごと信じているわけではありません。無学なようにみえてもチェリノブイリの三十年間を踏まえてその行動はあるのです。彼は大々的に店を開店オープンし、華々しく小高の復興のシンボルを演出しているようにもみえます。しかし店はオープンしても、人が戻らないのです。戻っても、交通機関がずたずたにされて、車がないと頻繁には魚を買いに来れないのです。それでどうしたか。車に冷蔵庫と陳列棚を備えたワゴン車で移動販売をするのです。移動販売をしながらつぶさに「復興」の現実の詳細を見据え、語ることなく、黙々と、無言でウェーバーの言う「日々の日常業務」に就くのです。彼は語らないでしょう。地震津波原発、と。しかし、その黙々とした姿から、彼が残された福島の最後の人びととともに最後の時間を過ごそうと云う気持ちだけは伝わってくるのです。そんな彼でも、アレクシェービッチさんのインタヴューに触れて思わず心が高揚する場面がありました、――損得抜きで遣っているのだ、と!この世では損得を考えたらやれない仕事もあるのだとも。それを傍で聴いて、アレクシェービッチさんを驚かせたのは、崇高な人間に接しているのだと云う思いとともに、長らく自分のなかで失われていた、故郷、と云うものの語感だったのです。自分が、故郷、と云う語感が分らないと云っているのではないのです。21世紀を生きる人類の大半になりきって、分からない時代になっていた、と云っているのです。日本人にあって故郷を、故郷への思いを通して、自分が人間であることを改めて思い出したと云うのです。
 世界の広域を旅するルポルタージュ作家のスベトラーナ・アレクシェービッチさん、彼女のはるか遠い彼方を見るようなまなざしに重ねて、わたくしたちは自分たちがTVなどで僅かながらでも見知っているシリアやアラブの現実、故郷を追われた民族の流浪の残像を重ねて、想像もできない、地球の裏側の、彼女が経めぐってい来た履歴の現実を思い遣り、越しきたった歳月を、茫漠とした風雪と閉ざされた砂塵のなかに思いはかるばかりなのです。
 
 
(付記)
 映画に出てくるアレクシェービッチさんは寡黙で、語りません。先の原稿の欄外のコメント欄で、「フクシマ」と「福島」を使い分けて書く理由について述べました。
 つまりここでも、「フクシマ」と書くとき、彼女なりのニュアンスがあり、彼女の感情に肉薄したときのみ「フクシマ」を使うのだと云うわたくし側の言い訳は、実は以心伝心の部類に属する、わたくしの想像力の次元の物語なのです。
 本人が明示的には言わなかったことを、想像力を介して含意を読み取る、語り手が語り得る以上の存在である場合にはそういう手法を使って受容体同士の、共振、を手に入れなければならないのです。共振 は単なる感情移入とは異なります。こちらの感情を基本に相手の感情を類推的に読み取るのではなく、言葉がそれ自身が持つ内的論理に従って、ひたすら対象の前で謙って聴こうと構えた時、到来する何ものか同士が出会うのです。主体の側からいえば、何ものかが出会ったかのように聴こえた、そのように耳に響いた、と云うにすぎません。幻聴と似ていますが、言葉自体の法則性を認める点で違っています。
 長い言い訳になりましたが、彼女が明示的には言わなかったことも、口吻、言語以前の所作的な含意をも含めて、言語化出来ると云うある種の 僭越、を犯してしまいました。