あらためてシェイクスピア四大悲劇について・1 オフィーリアとガルトルードと――自己犠牲の愛と鎮魂 アリアドネ・アーカイブスより
シェイクスピアの作品群は夫々において完成度が高いのでなかなかに作品間のテーマの継続性と同一性と云うことを論じることが難しい、専門家は別として。
思い付きのレベルを出ないのだが、ロマンス劇『冬物語』は悲劇『オセロ』の後日談だと思っている。王妃ハーマイオニはデスデーモナの後日談だと思っている。高貴さゆえに疑うことを知らず、不義の疑いの中に死んでいく人間劇の哀れさを寿ぐ一転した物語こそ、『冬物語』の大団円であると考えられるからだ。さながらに嵐の吹き荒ぶ黒海沿岸を流離う『オデユッセア』さながらの、諸物語等の悲劇こそ、大洋性とも向日性とも云えるおおらかさと寛大さに満ちた、王者的威厳に満ちた物語である。
『ハムレット』は『マクベス』の後日談だと思ってる。『マクベス』ではヒロインの悲劇への傾斜、運命の自己呪縛の側面のみが卓越して描かれているが、実際には黒沢の改作『蜘蛛巣城』が描いたようにマクベス夫人は大きな役割を演じている。マクベス夫人は、夫が思っていたほどの器量がなかったこと、凡庸さに失望しながら、不慮の病の中で死んでいく。呪いとか、自己呪縛としての運命とか、あらゆる感傷性に拘らない、新しいタイプの人間なのである。
マクベス夫人の悲劇性が際立つのは、マクベスのような運命とか名誉とかその他の人間的な欲望ではなく、権力闘争をそうしたものとして捉え切った冷静さに上に、犯罪が自覚的に計画されていた点だろう。彼女は決して激情に駆られることはない。
そうした人間性の延長線上に、『ハムレット』のガルトルードは登場してくる。王の弟と組んでクーデターを試み自らが影の権力者として君臨する。配された王の怨念と、父親殺しの犯人を他ならぬ自らの母に求めなければならないハムレットの自己矛盾を傍で見ながら政治的冷徹さを貫こうとするかに見える、ガルトルード。しかし彼女の善良さは、もしかしたらリアルポリティクスとは無関係かもしれない。後段で示すことになる、彼女が示したオフィーリアへの哀悼を見れば、単なるリアリストではなかったことは解るだろう。
しかしある段階から彼女は、息子の狂気を、――あるいは狂気にまで高まった復讐心の執念を思い知るようになる。その時から彼女の中である種の変化が生じる。個人の責任論を越えて、総体としての政治システムに責任をとるほかはないと自らの呪われた運命を首肯するのであるが。個々の運命ではなく、人間劇総体としての運命に責任をとる、という意味で彼女もまた新しいタイプの人間像のひとりなのである。新旧の時代が激しく入れ替わるイギリス王朝史における、エリザベス治世下の政治的経験が影響しているのかもしれない。
先ほども少し触れたように、やはり彼女が最後に残された運命の道筋を理解するのはオフィーリアの死を通しての自己認識に於いてだろう。悲劇を浄化するものとしてのオフィーリアの死を通して、彼女はキリストのように苦い一杯の盃を傾けることを首肯する。解きがたく縺れあったまだら模様の運命のより糸が彼女の手に握られ、ちょうど扇の要のような位置にある自分自身を運命の鏡の中に見出す、歴史と個人的死の同時性、文豪シェイクスピアが描いた最大級の人物造形であると考えてよい。
彼女は毒杯を、自分がこそそれを受ける権利があるとでも言うように躊躇いなく飲み干す。まるで王者の死を演劇界の王座の中で演ずる名優の引退興行ででもあるかのように。彼女の生涯の中で最高の時であった。毒杯を傾けると云う行為が、息子の命を救うことはできなくても、少なくともその狂気から救うことになることを彼女は明瞭に理解していた。ハムレットの死に意義と意味と威厳を与えることが出来ることを確信しながら彼女は死んで逝く。それゆえにこそ彼女の認識と死の自己透徹のなかで、――あえて言えば彼女の愛の中で、廃太子狂王ハムレットは号砲の中を葬送と見送られる英雄としての死を完結させることが出来たのである。
同じ自己犠牲の死と云ってもガートルードの死はこと終わりて後の、悼みの死であった。オフィーリアの死は、悲劇が逃れることのできない確実な予兆として近づきつつあるとき、認識に先立つ行為としてのそれを予見し、自らの自己犠牲によって悲劇を救済すると云う、美の最高形態としての死であり滅びの美学であった。