アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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あらためてシェイクスピア四大悲劇について・3  四大悲劇についての所感 アリアドネ・アーカイブスより

 
 
 『マクベス』の世界は、人間は魑魅魍魎や、魔女や精霊と云った自然を離れて、目的と手段系と云う現実の世界の冷徹さの論理を理解することなく退場していく、他方では傍で冷静の読み解いたもののみが勝者となって生き残っていく、というお話だったと思います。自然界から人間の世界へ、文明の端境期における自然の論理が後退していく時代を描いたものと云えます。
 『リア王』は、自然の論理に変わって、――昨今話題になっている教育勅語のような、親に孝養を尽くせとか、夫婦和親せよなどと云う、人間の論理が崩壊していくお話です。人間もまた生物種の一種である以上、自らの生存を最優先させて生きることは、それほど非道徳的なことなのであろうか、と言う問題提起がここにはある。やがて歴史はかかる想いを適者生存、弱肉強食の論理として、それが自然界に元々あったのだと云う「学説」によって補強していくことになるだろう。しかし自然の論理は同時に倫理でもあり得るのだが、自然界にあるとされる論理を人間の世界に投影させた「学説」には、論理はあっても倫理はない。同じ論理が自然界と人間界では異なった意味を持つことに注意していただきたい。
 『オセロ』は、近代市民社会の論理は、適者生存等のダービニズムの論理だけではない、と云うことを描いている。人間は利己的な存在であると云う自己認識だけでは不十分だと云うことを描いている。自然からも、宗教と云う名の人間が編み出した文化が有する価値観からも解き放たれて、超越的なものの価値を否定したとき、内面的な個人と云う自律の概念を創出できればよいのだが、それが出来なければ、人間に内在するエネルギーは目的と手段と云う形に掬い取られることなく、アナーキーなものへと姿を変じ、自己否定の論理を生み出す。自己否定は同時に他者の抹殺と云う無の倫理を生み出す。かかる無の論理が集合的な類としての論理へと変ずると、フロイドなどによって指摘された死への願望、進化を遂げた人類が最終段階で回帰する、無機物として化学的な安定を得たいと云う死への願望、タナトスの論理である。
 『オセロ』の否定の対象は、いまだオセロやデズデーモナと云う人類最後の高貴な人種に向けられた憎悪であった。これが世界そのままに向けられて全てを破壊し尽くしたいと云う止み難い願望、その病理を描いたのが『ハムレット』と考えてよいだろう。
 人は自らの良心の外側に悪の概念を打ち立てて、それと同一化をすることで「悪人」になることはできる。自らの内側に悪の概念を胚胎させて、それと批判的に対決して生きることも、内面の悪の論理と取引をして偽善者として生きることも可能である。『ハムレット』が生み出した悪の概念は、かかる近代主義的なタイプとはいずれとも異なっていた。
 それは良心の病とも云うべきものだった。それは正義の病とでも言うべきものであった。正しさや正義の概念は死者の委託と云う形で現れる。それが神のお告げであるのかデーモンの誘惑であるのかがハムレットには分からない。その病の特色は、利害打算と云う、一見、眼に見えるドラマの形で現象することだろう。ここに劇中劇とでもいうべく王殺しの劇が城内で演じられることになる。ハムレットの演出として!
 ハムレットは己の不確かな予感を、演劇と云う形式で可視化されたものとして現象させると云う、いっけん、手の込んだ手法を採用したにもかかわらず、疑念は深まるばかりである。
 ハムレットの周囲にいる人間は、クローディアスにしても自らの母であるガルトルードにしても、典型的な悪でる様に見える。他方、彼らの悪人性に最終的な確信を持つことはできず、クローディアスにしても母であるガルトルードにしての、遠慮がちに自らを主張しえない善人であるようにも同時に見える。
 悲劇は、ハムレットが自らの疑心暗鬼の世界に生きながら、同時に現象界においてはボローニアスの殺害をはじめとして、一人一殺の殺人鬼と変じて行く過程だろう。人を殺してみて、そのリアリティに震える場面だろう。正義と云う名の論理を講じて!殺人者としての初めて自分を理解したとき、ハムレットは生きている!と感じたのである。
 悪がそれとして、対象的に、明示的に証明できる場合は良い。しかし我が子ハムレットを襲った悲劇は、善か悪か見分けがたく混淆した、人間の世界からの独立した、それ自身の法則に従って自らを貫徹する否定の論理なのである。
 それに係るものすべてを破滅させると云う意味で、資本の論理に似ているかもしれない。二十世紀になって顕著になった癌と云う病理の論理と似ているかもしれない。目的‐手段系の論理では説明できずに、文明の最終段階が生んだ、生物進化の自己反省、無に帰りたい、物質として化学的な安定を見たいと云う、無機物の論理なのである。
 ガルトルードはかかる悪の論理を見極めた時、それは我が子ハムレットに体現されたものであったが、自分の内面にも巣食っていて長らく自分の実存と共存していた論理でもあった。彼女にできることは、悪魔の狡知にかかったと見せかけながら、王者としての威厳を示して死ぬことだった。