アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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あらためてシェイクスピア四大悲劇について・4 四大悲劇を並び替えると文学史になる? アリアドネ・アーカイブスより

 
 
 
 そこは素人の気楽さ、と云うことでお許し願いたい。
 数年前よりシェイクスピアの戯曲の全作品を読んでみようと企てて、最後によく知っている四大悲劇の手前で中断した。理由は、それらはよく知っていると云うほどではないにしても、ある程度は知っているから、積み残しても良いだろうと、楽な方に考えたのである。
 しかし、そんな曖昧で堕胎な気分で読んだのだから、その後も纏まったシェイクスピア論などの文に結実するわけもなく、今日に至っている。
 
 さて、四大悲劇。なぜ四大悲劇なのだろう。なぜ、今日においては抜群に知名度の高い作品となったこれらの作品が選ばれることになったのだろうか。『マクベス』、『リア王』、『オセロ』、『ハムレット』、これらの作品に通底するテーマはあるのだろうか。題材も背景も様々である。
 マクベスは中世の頃のイギリスを舞台としていると思われる。リア王は、それより以前の古代王族の物語である。オセロは近世のイタリアはベネツィアの物語。ハムレットは、それよりは前、中世の終わりの頃のデンマークを舞台とした物語であろうか。何れにしても共通しているのは、リアリズムではないと云うこと、確かな歴史的年代を想定して読むべきものではない、絵空事である、という点だろう。
 
 これらの四つの作品が、何故、四大悲劇として選ばれたのかちっともわからない。余りにも読後感が違うのである。誰もが、傑作だと云うので、そうかな、とは思うものの、これらの作品が同一の作者の頭脳の中から紡ぎ出されたとするには、素材も多面的で、物語世界の幅と奥行きが違うし、余りも読後感が違っている。仕方がないので、前二稿で書いたように、なんとか、統一的なテーマがあるらしいと云う前提に立って、苦労して四作品を通して論じてみたのである。
 その結果、自分でも読み直してみて、不思議な論考になっていた。わたしは、普通に読まれている読み方を知りつつ、それとの違いを無視して、あえて奇説を論じ建てて見たのである。
 
 論じ終えて、それでも釈然としえず、バラバラに四作品を並べて置いてみた。すると、それらは自動的に、奇妙な時系列に従って、文学史の弧を描いた。
 『マクベス』は、人類が、魔女や精霊と云った迷信から自由になれない、神話と説話の端境期にある、昔風の物語を描いたものである。しかも、勧善懲悪風の。観る人も、造る人も、演じる人も、血の掟とも云うべき風土性から自由ではあり得ない。人類は、彷徨いつつも未だ人間の自律と云うものを完全には信用しきれず、自然を越えると云う発想がない。日本文学史で云えば『宇治拾遺物語』などの説話文学に該当するものだろうか。
 『リア王』は、孝養の徳と云う、社会の掟が揺らぎつつある、世俗化した社会の始まりを暗示した物語である。世俗社会の到来は勧善懲悪風の価値観の崩壊を描いている。文学史的には、近世的な世話物と言うべきか。親に孝行をした娘の努力のみが報われないと云う、身も蓋もない話であるが、この作品には、自分本位に生きると云う価値観の到来を予見している。それを理解しえないものはリア王のように、不可解な没落を遂げるほかはないのである。日本文学史風に言うと、江戸期の大衆芸能か世話物に分類されるだろうか。枠組みの明確さ分かりやすさと云う意味で歌舞伎風でもある。明治期の『金色夜叉』の雰囲気のようでもある。要するに近世風と云うことである。
 
 『オセロ』は、近代の心理劇である。人はマルクスの言うように経済や利害関係では動かないし、近代劇特有の信条や思想的な対立ゆえにドストエフスキー風に動くわけでもない。
 煙のないところにも火が立つ?原因無くしても結果のみが起きる?四民平等の、神なき世界、徹底的に世俗化された世界に於いては、もって生まれた家柄や生物学的な肉体的な条件が持つ格差が我慢ならない。四民平等を悪平等と云うふうに理解するならば、人間が平等であるのは最小平均値においてでなければならない。あらゆるところに粗さがしをせずにはおかない下司オンリーのリアリズム社会では、社会的であるにせよ、精神的であるにせよ、外見的容姿のレベルであるにせよ、その個人の努力の範囲に属さない先天的とも言うべき格差が許しがたい。そんな格差を生んだ神がそもそも許せない。
 一方、とことん善良なオセロのような人物や、高貴であるより外の在り方を知らないデズデーモナのような女性は、疑うことを知らないゆえに易々とイアーゴのような下男男の策略に屈してしまう。『オセロ』は、近代という時代に固有の心理劇なのである。
 日本文学史で云えば、昭和の文学、と云うところだろうか。
 
 『ハムレット』は、人間の思惟すると云う思考の自由度が、固有な状況下においては、安手の演劇形式に従うと云う、現代文学への嘲笑であり、自意識論の延長線上にある純文学スタイルへのパロディーである。近代的な自我などは空想の産物ではないのか?
 生きるべきか死するべきかなどと云う深刻な問題ではない。そのような問いが可能であると想像する近代的個性の思考の自由度が問われているのである。ある種の精神病理学的な状況下においては、人の行動は類型化の傾向を見せる。この状況下を生きてみて人は初めて、安手の大衆演劇が一片の真実を再現していることを思い知るのである。大衆演劇が何故廃れないのか。一面の真実を伝えているからである。真実と云うものがあって、それを伝えると云うよりも、ある種の状況下で人が取り得る選択肢の幅が決められてくる、と云うことなのである。あれかこれかという選択の幅がない、自由度の低い、暗い、半決定論的な世界が出現してくる。
 安手の大衆演劇とは例えばこういうことである。――
 古代ギリシア叙事詩イーリアス』に描かれた母なるものの不貞と、オレステアの物語に描かれた息子の復讐の物語、そのステロタイプ化された安手の大衆演劇がエルシノアの城で演じられる。演目は、寝取られた王妃とそれを巡る亡き王と王弟の物語。かかる王朝史のスキャンダルを、亡父から委託とも遺言とも言える形で受け取った、ナイーブで優柔不断な王子の物語である、と云えばよいだろうか。そのハムレット王子が、心優しき文学青年であると同時に殺人鬼であるのかもしれない、という巧妙な文学批評がこの作品にはある。ここまでくると、昨今のメディアを賑わせている、思春期のアイデンティティに失敗した精神失調の青年による、母親殺しの世界を予感させてその予見性と不気味さにわたくしはたじろぐ。
 『ハムレット』の現代性は、劇そのものを劇中劇として再現させ、また、言葉のコンテクストの意味においてテキスト批判を行うと云う手の込んだ、メタレベルの演劇になっている点だろうか。
 たまたまこうなった、と云うだけのことかもしれないが、こんな風にも読めてしまうと云う点が、――つまり古典にして現代の前衛演劇でもある、――シェイクスピアの不思議さなのである。