アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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あらためてシェイクスピア四大悲劇について・5 人間であるとは、そして人間であり続けることとは―― アリアドネ・アーカイブスより

 
 
  『ハムレット』を初めて映画で見たとき、感じた違和感は忘れない。父の霊と称するものの異様さ、である。わたくしたちの伝統的な意識からすれば、近親者の霊と言うと、おどろおどろしいものでもどこかに懐かしさの一角が残存してある。陰湿な場合もあるけれども、情緒的で悪質な怨霊と云えども心情的に理解可能である。あるいは人間的でありすぎるがゆえに幽霊なり怨霊となったと云うことが逆に理解されてくるのである。ところが『ハムレット』に描かれた亡き父王の亡霊は、自分の事情だけを言い立てる、亡霊なのか悪霊なのか分からない無機的な存在である。かかる無機性が我が国の幽霊や怨霊に欠けている点である。この点はハムレットも同様と見えて、ホレイショとの間に交わされた会話においても主要な関心事として意見交換がなされている。どうも、亡父の霊と云うだけではなさそうである。しかし、弔われなかった例が魔王として変容する、と云うこともないことではない。しかしここではこれ以上の詮索は避けて、言いうることは、『ハムレット』全編を通じて見られる諸人物造形の曖昧さ、二重性と云う著しい特異点を考えた場合に、父王の霊のみが明確な人物像の輪郭を持っている点だろう。 しかしそのような亡父の霊も、外から、ハムレットの方から見るとダブルバインド、――本当の肉親の霊なのか魔王なのか分からないと云う――二重性として現象する。
 登場人物の自意識のレベルにおいてダブルバインドとして現象するという問題と、存在の現れ方がダブルバインドとして演じられると云う面は区別して論じられなければならない。ここで取り上げているのは、登場人物の自意識のレベルにおけるダブルバインド、それが外見において反映されるということ。亡父の霊の場合は、一個の存在としては揺るぎがないが、他者の眼には単にダブルバインドとして映じるにすぎない、という意味である。これは登場人物の二面性として、演劇形式としてはあり得ることである。
 
 ハムレット、ガルトルード、クローディアス王のダブルバインドについては既に語ったので省略する。忠義一途と考えられるホレイショについても殆どアドバイスと云うことをすることがない、たんなる報告者、視点人物であるに過ぎない。悲劇への道のりを只管に進むと思われるドラマの枠組みの中で忠義と至誠の間を動揺する宰相ポローニアスの一族の描かれ方も幅と厚みを持った存在として描かれている。ハムレットによって暗殺されることになる二人の学友に至っては挿話的な点景人物であるにも関わらずその挙動は、最後に至るまでも真偽は本当のところは分からない。最後に漁夫の利を占める、棚ぼた式の隣国の王子・フォーテンブラスにしても、ハムレットの葬儀の執行者としての側面が描かれているから、遺志の継承者という側面を持っている。単なる侵略者ではない。武人から武人として遺志として伝えられると云う、不思議な描かれ方をしているのだが。
 結局、勧善懲悪風の解りやすくて、隈取の明確な人物造形と云うよりも、そのような役割分担を脇において揺れ続ける人物造形の不明瞭さ、ファジーな意識の非決定性と云う点にこそ本来の人間らしさと云うものがあるのではなかろうか。
 
 人間とは、運命に翻弄され最終的にはそれに従うにしても、揺れて震え続ける存在なのである。
 
 こうした震え続ける自意識としてのダブルバインドが、悲劇の方向へと収斂すると、再び諸登場人物たちが持っていた奇妙な二重性の影は霞んでいき、遂には明瞭な存在論的な輪郭を顕す。こうして悲劇は完了するのだが、悲劇への道行きとは、あいまいなままでファジーに揺れ続ける自意識が自らを選び取っていく実存的な行為のようにも見える。かかる実存的な選択行為、あるいは先駆的決断性を優先すれば実存主義的なものの考え方が成立するであろうし、決断に至るまでのファジーに揺れ動く曖昧さにこそ人間性を、人間が人間である所以を認める考え方も成り立つのである。これを何々主義の名で形容することは語の本来の意味からいって無意味なのである。
 
 認知能力を、記憶力や判断能力の退化に基づいて考える考え方がある。これは主として大脳皮質や脳髄の諸機能などと連動させた生理学に基づいた考え方であるが、これはこれで大いに尊重しなければならない学説、近代的な見解の一つではあるが、決意と決断の間にあるファジーなもの、揺れ動き続ける自意識の震えつつある微振動、言葉にならない言語以前のもの、現象としては外界に殆ど影響を与えないが、かかる現象以前のものの不在という傾向こそ、認知症精神病理学的症状に特有なものであることを付け加えておく。
 
 極端に類型化された役割的な表情と云うものは生体が崩壊する過程で最後まで残ると云う意味である。残された類型化された人間像など蝋人形のように不気味である。躊躇や躊躇いと云う、中間的な感情の中間項が欠けていることがこそ精神病理学的な特徴なのである。この点から、人間は人間であると云うこと、人間らしさの一端を理解することができるような気がする。
 
 喜怒哀楽とは言うけれども、人間とは明瞭に隈取された表情と表情の間にある中間的なペルソナの陰影と漣のような揺らぎ、表意や表情にまでには至りきれない言葉にならない言語以前の、揺らぎの合間に見え隠れする所作的な表情にこそ人間性を理解する一端があるのではなかろうか。
 
 個々の症状ではなく、ファジーなもの、揺れ続ける自意識の形を成さない曖昧さこそ、人間の総合性を示す指標としての想像力の問題が介在すると思われるからである。
 ある意味では、決断したり論理的な解を求めると云う認知的な方法は簡単なのである。むしろ、自己とは異なるものとしての他者が問題設定の舞台に登場してくると云う仕方は、統合的な想像力の問題であるからだ。総合性としての認知の退化は、物事を識別する能力よりも、想像力の問題として現れる。なぜなら、自己とは区別された他なるものとは、想像力を介することなしには現れえないからである。
 
 
 樹は葉から枯れて葉を落としていくように、ひとは想像力の統合性の方から一枚づつ、まだら模様に枯れて行く!つまり、あいまいに揺れ続ける自意識の微振動、ファジーなものの表情の方から、一枚さらにまた一枚と失われていく、という意味である。