アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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寅さん27作『浪速の恋の寅次郎』(昭和56年)

 

 BSでは毎週土曜日、ここ数年継続的に寅さんシリーズをやっているようですが、たまたまチャンネルを入れてそれが寅さんの画像だと見るともなく見てしまいます。昨夜もそうでした。

 舞台は大阪の天王寺界隈で、下町芸者との実らぬ恋というのがお決まりのストーリーでした。違うのは、松坂慶子演じる下町芸者が演じるのは、家庭の事情で離ればなれになっている生き別れの弟を探したい、というストーリーがあって、同情した寅さんは彼女の人探し物語のお手伝いをするうちに、例の癒されぬことのない、慕情という名の永遠の恋患いに感染してしまう、というものです。

 恋や愛には様々な形態がありますが、この物語で描かれているのは、不遇な境遇への同情がいつしか恋となり愛になり、肉親愛にも似た共感と同情と愛と恋とが区別が利かなくなるという、愛が持つ奇妙な固有の状況です。奇妙な、或いは固有な、と書いたのは、この恋が限りある限りでの恋や愛の中にあって、決して結果としては実りや癒しを齎すことがないからです。

 この映画を観ながら感心したのは、こうした不遇な環境にある女性への寅さんの愛の姿勢でした。それは全作品に共通するものでもありますが、この27作に於いては、それが際立っていて、象徴的、典型的な形で現れているような気がしました。

 映画の醍醐味は、映画そのものを見ていただくのが一番良くて、言文で正確に伝えることはできないのですが、しれども一コマだけ話させてください。それは、訪ね人行脚の挙句に受け止めなければならない結果、――弟はもはやこの世の住民ではなかったという顛末です。

 下町芸者は、その日も仕事を休むことなく健気に仕事に就こうとします。しかし心理的な落胆は大きくて、享楽的な宴会の席とのちぐはぐ感、違和を拡大させるばかりで遂には身体的な失調をきたし、ついに何も告げずることなく逃げるように茶屋を抜けだし寅さんの下宿に酔った勢いで崩れ落ちます。その崩れ落ちた先が寅さんの膝の上で、この夜、それは何らかの男女の間の了解!を意味していたで言えばはずなのに、野球で言えば見送り、寅さんはたじろぐようにど真ん中の球を見送りしてしまいます。つまり、同情だか恋だか愛だかわからないこの種の愛に於いては、肉体的、身体的な要素がどんどん減退してしまうので、行為や行動というものが気圧の関係で持続できなくなる世界に属しているのですね。寅さんの消極性、優柔不断ぶりをせめても仕方がないのです。愛や恋の中には限りなく肉体的、身体的な要素が減退減縮していく愛の形が昔からあるのです。

 つまり寅さんはこの場合、古来からある愛の形を受け取ったということになります。その伝統工芸品のような愛を、敬意と尊敬の気持ちをもって受け止めたのです。舞台が浪速の大阪、しかも飛鳥時代以来の伝統と風土を曳きずっている天王寺界隈である、ということは決して偶然ではないのです。

 他方、これは受け止められた方の、つまり下町芸者にとっては世俗に於いては愛の拒絶、を意味しました。しかし愛は、そのような現象面での愛の仁義を超えて潔きよく清々しかったのです。

 しばらくたってから、この物語が毘沙門天門前町では伝説と化そうかというころ、いまは芸者を止めた女が寅さんを訪ねてきます。癒えかかった傷口がまた寅さんの中で大きく開くことになります。彼女は無神経なのでしょうか。結婚の知らせを告げるためだけにわざわざ東京の柴又まで寅さんを訪ねる。そうではありませんね。恋や愛の形式の中には、世俗とは違った次元でしか生きられない恋や愛の姿があって、そうした二刀流で生きるという宣言を告げるためにだけやって来たのですね。この場合、世俗の愛に尽くすという姿勢がそのまま伝説の愛への敬意によって支えられているのですから。その時はまだ寅さんはそのことを理解できないでいました。

 松坂恵子が、風俗の世界性がで生きる下町芸者を凛とした気品で演じているのが印象的な、この一作、とでもいえる傑品でした。