アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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”ことば”の揺籃のなかへ!――なぜ”思想”と云わないで”言葉”と云うのか アリアドネ・アーカイブスより

 
 
 言語学と云う分野は形而上学と云う言葉と同じく難しそうで学んだことがありませんが、最近は、従来であれば「思想」と云うところを、無意識のうちに、「ことば」もしくは「言語」の問題と、書いてしまいます。
 
 何が違うのかと云えば、こういうことではないかと、最近は感じております。
 
 ものを考える形や考えた結果を、思想、と呼ぶ場合は、一方では、言語との関わりから云うと、言葉が「思想」を十全には表現しえない場合がある、と云う含意があるように思われます。
 
 考えてみれば、往古より、意あってことば足らず、と云う言い方もあるように、常識的な見方とも整合しています。言葉にならないとか言語に尽くしがたいとか、感動を、そのまま言語にすることが出来ないで、感嘆の気持ちを表現することがあります。
 
 ことばを重視する立場はこれとは違った源流があって、言語一元論”擬き”とでも云うべきもので、思想やものの考え方やその結果などは、言語を離れてはあり得ない、と云う考え方です。これが一つです。
 
  二つめの問題は、言葉は言語と云う表現されたものである限りにおいて問題となるのに対して、”思想”の方は、わたくしたちに対して、場合によっては、”超越”の問題として現れるからです。かかる”超越”の立場から見れば、言語論は”内在”の問題として現れます。この問題は、後半に於いて論じます。
 
 さて、一番目の考え方は、思想や心理と云うものは、言葉で表現化されたかぎりにおいてしか、存在しえない、と云う立場です。つまり言語と云う表現の媒体手段を超えて、思想やものの考え方は存在しない、と云う考え方です。随分堅苦しい考え方かなと思われるかもしれませんが、考えてみれば哲学上の古くて新しい問題――”超越”と”内在”の交錯した問題に、一部、どうしても触れてくるのです。
 
 むしろ、最近のわたくしはこのように考えているのです。
 
 存在と言葉をめぐる問題は言語一元論”擬き”の方が古く、――ここには”経験”の発生の問題が生じてくるのですが――言葉の世界に自足していたものが、ある段階から”反省”と云う言語行為や思考と云う形式を学び、言語の外側に”超越”としての”思想”やさらには”哲学”、”神”、”宗教”、そして”法”や”国家”概念のようなものまで編み出したのではなかろうか、と。
 
 これらの諸概念が成立を見た知場(地場)こそ、”経験”と云う世界の成立ではなかったか。
 
 そして、”経験”のなかで様々な事物が確定されていく、丁度、『創世記』において、初めに言葉ありき!言葉は神とともにあった。言葉は神とともに、人間を、そして万物を指名して創造した、と”旧約聖書”にもあるように。わたくしはキリスト教徒ではありませんから正確な要約になっていないのかもしれませんが、聖書は言語に関わる一端の真実を表現したものではないかと考えています。
 
 ”存在”は、”ことば”の揺籃のなかで生まれ、”経験”となる。この段階では”ひと”は未だ”世界”に存在してはいなくて、”言葉”と”神”のみが際立って在りと云える時代がかってあった。やがて”ことば”と”神”の共労作業のなかで、”世界”が、そして”経験”が”天地創造”のレベルにおいて誕生する。
 
 ”経験”のなかで、”ことば”は”言葉”なり”言語”へと変貌する。一方、”天地創造”のなかで誕生した”言葉”や”言語”にとっては、かって”神”が占めていた領域が、ある場合は”超越”なるものとしての世界、として人間の前に聳え立ち、ひとは、そこから”思想”や”宗教”の問題としてこれを語るようになる。
 
 ”思想”として語ることと、”言葉”として語ることの違いは、後者にはないものとしての、”超越”の問題がある。より正確に言えば、”超越”の発生的起源に迫る問題群があると考えられる。
 
 
 それゆえ、いきなり”思想”や”宗教”を”言葉”や”言語”的な行為として既成的なレベルで語るよりも、より先験的な”ことば”の次元まで降りて行くことが必要ではあるまいか。
 
 ”ことば”の次元で、あの古くて新しい永遠の課題、――カントの”物自体”、アリストテレスの”第一原因”の問題に逢着するのではあるまいか。あるいは、”物自体”(存在)や”第一原因”に先立つものとして”ことば”はあるのではないのか?ハイデガーふーに云えば、言葉は存在の”家”として。
 
 
 ”存在”と”ことば”をめぐる秘境性を帯びた問題は、”言葉”や”言語”、さらには人間にとっての”経験”的地平の問題――実際にはこの段階で”人間”は誕生する――、いわゆる”超越”の問題、――”思想”、”宗教”、”法”、”国家”の、いわゆる”形而上学的領域”の誕生――に関する秘密をみる手掛かりを与えてくれているように、わたくしには思われる。
 
 ”ことば”はわたくしを何処に連れて行こうとしているのか。
 かってイタリアの詩人ダンテが”希望”と云う言葉を捨てたように、20世紀の人、マックス・ウェーバーデューラーの有名な騎士に擬えて、半眼に眼を見開きながらも視線を落とし、気配を消しながら黙々と鋭意、騎馬を進める。視界は完全に閉ざされている。道案内をする動物たちは猛々しく不気味で、あるいは心もとないほど頼りげなく、裏切りに予感さへ仄めかせながら、敵か味方か分別できない。ソフォクレスオイディプスが盲いることによって心眼と云う黙示録的啓示を学んだように、かって先人たちが歩んだ足跡も荒野の中に消え、やがて未知の鬱蒼とした森が覆いかぶさってくる。
 言語は夜警の梟ようにひとり目覚めていなければならない。
 
 知的遭難を怖れずに進んでみよう。スフィンクスの謎を解いた不吉と云う名の村の辻を過ぎれば、帰路を表示した路傍の道標は既に歴史的始原の黄昏のなかに吹き晒されて行方は不分明になってしまった。アンティゴネ―に手を手を曳かれ導かれるままに、予兆と予感に震えながらも却って意欲は日々甦る。
 
 ”世界”を己が世界とするものは、肉体と云う条件が人間であることの条件である限り、シートンの物語のように、野生のなかに屍を晒さなければならない。
 
 
  ”ことばの揺籃のなかへ!”