ハイネ『流刑の神々・精霊物語』 アリアドネ・アーカイブスより
ハインリッヒ・ハイネの『流刑の神々・精霊物語』(岩波文庫版・小沢訳)を読むと今から百五十年以上も前のドイツロマン派の残り香が香る名著が、如何に新国学ともとも評された柳田民俗学の、とりわけ『遠野物語』や『山の人生』などの時期の柳田と関係が深かったかが分かる。
キリスト教渡来以前の、土地の精霊やギリシアの神々は如何にして、悪霊なり怨霊となって駆逐されていったか、基本的にハイネの姿勢は同一だが、前者を扱ったのが『流刑の神々』であり、後者を描いたのが『精霊物語』である。物語としては、わたくしには後者の方が面白く読めた。
これら、日欧両方で進行した文明史的過程は、宗教対土地の精霊たちの対立と云うよりも、人類が自然との交渉を持つ過程で複雑化し、文化や文明を形成する過程で自然のままではあり得ないと云う、進化の過程の文明論的な苦渋があったのだと思う。主要な諸宗教が土地の精霊たちや神々の神話を駆逐したのではなく、より広範な、宗教と結びついた習俗であるとか慣習、習慣や道徳性や倫理観などがマルクスの言う、所謂、上部構造を形成し、それらが自然と、人間が持つ、人間に内在する自然性に対立していったのだと思う。
さもあれ、自然に還ることはできるのだろうか。ロマン派以降、文明に対する反対者たちの論拠を心情的に支えたものはこの種の論議の周辺であった。
しかし、自然とは、なんだろうか。
もう一つの自然概念は我が国独特のものの考え方であって、自然とは文明国のなかで理念的に抽象化された概念に過ぎず、人類史は歴史を刻む過程で、その都度ごとに第二の自然と云うべきものを生み出してきたのではないのか。
第二の自然概念にも二つあって、ひとつは、日本三景や○○百景と呼ばれるような、民族の生存の継続と継承の意思たる、人間と自然の交互作用によって生み出されたものである。今日みられる桜の名所と称されるもののほとんどはこの範疇に属する。人が自然に働きかけ、働きかけられた自然は自らの自浄作用のなかで、自然は第二の自然となる、と云う仕組みである。
第二の自然概念のもう一つのものは、ものとしての「自然」と云うよりも、人類や民族の心性のなかに内在する「自然性」とでも云うべきものである。自然性とは、人間が自然に働きかけ、働きかけた自然が共労的自然として人間に反作用を及ぼす、その及ぼし方を自らの内在的な自覚として「自然」ととらえる、自然性の自覚の如きものである。
この本を読みながらそんなことを考えた。