アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

アリアドネ会修道院附属図書館・アネックス一号館 本館はこちら→ https://ameblo.jp/03200516-0813  検索はhttps://www.yahoo.co.jp/が良好です。

オースティン『説き伏せられて』 アリアドネ・アーカイブスより

 
 
 ”アンは若いころ分別を強いられ、年をとるにつれてロマンスを学んだ”(本文)
 
 オースティンの最後の作品は、この一行に云い尽くせるであろう。通常人は、年長けて理性や分別を学ぶものだが、オースティンの登場人物たちは情熱を学ぶ。
 フランス革命とナポレオンの大陸戦争と云う人類史の画期、新旧の時代の端境期に生きたオースティンには、維新期以降の時代を生きた同じく才女である我が樋口一葉との共通点のようなものがあって、それは世の中の動向に曇らされることのない明敏さ明晰さであり、ともすればそれは男勝りのリアリスティックな皮肉や冷笑的態度と重なることもあった。ただ同様の天才とは言っても、ロココ的優雅さの世界に留まったオースティンと、『にごりえ』などによって定義として人生の最低の水準に触れ、断末魔の死闘との云えるほどの壮絶極まりない戦場に赴いた最晩年の一葉とは根本的に異質な才能の持ち主ではあったけれども、天才が花火のように短命では終わらない、彗星のような残照を曳く一葉の最後の乾坤一擲とも言える思いと、オースティンのあくまで穏やかに慎ましやかに語り終える余裕と人生の豊穣との比較は、所詮は好みとしか言えない場面で決着を迎えるほかはないであろう。
 
 物語は単純、まだ人生経験が伴わない若い男女がロマンス劇を、心ある中年女性の叡智溢れる助言によって一旦は諦めるが、八年後に結ばれる、と云うお話である。
 舞台設定が19世紀の初めのころであるから、家柄や育ちと云うことが婚礼の第一条件とされていた、――すくなくとも上流階級では。それらを単なる属性として退けるには、当時の彼らには力が足りなかった。あるいは情熱も!と皮肉ではなしに云うことが出来るのかもしれない。
 しかし八年の長い歳月は二人を変えた。それは精神的な意味だけではなく、具体的には、富と権力を身につけたウェントワース大佐は、名門ウォールター・エリオット家の令嬢アンに正式に申し込める立場を得た、と云う言い方では皮肉も過ぎる、と云われるだろうか。
 むしろ今日の読者が読んで感じる違和感は、一方的に婚約を破棄しておいて――見識ある令夫人に「説き伏せられた」結果とは言え――八年後において婚約が目出度く成就する過程に於いてすら、過去の自らの言動を良しとする、主人公の悪びれぬ態度であろう。もう半世紀後の作家であれば、本人の人柄や能力よりも家門意識や経済力のようなものを優先させた自らの知見の愚かさ浅はかさを述懐して一篇の教訓とすると云う話の結びになりかねないのだが、オースティンは過去の決断も現在の選択も共に正しい判断であったと胸を張って言うのである。ここにある考え方は、愛と云えども環境や状況と云う強固な枠組みの中にある限界性と無縁ではあり得ないこと、客観的な条件そのものが変化しない限り過去に生じた出来事を(現在からみて)是とすることも否とすることも観念論や恣意的的判断の誹りを感受せざるを得ない、と云うオースティン固有のリアリズムがあるのであろう。
 
 じつを言うと、かかる冷徹とも冷酷とも云えるレアリズムであるからこそ『説き伏せられて』はオースティン文学の掉尾を飾る傑作と云ってよいのである。
 この作品には、一葉にも劣らぬ「冷笑のひと」オースティンの自己批判がある。その場面は、土壇場になってもなお手掛かりを見出せずにいる、三十前後の老成した二人の元恋人たちに対して、見るに見かねた親友のハーヴェイ大佐が助け舟を差し出す場面である。窓辺で一人離れて書き物をしている件のウェントワース大佐に聴こえるほどのほど近さに大佐はアンを呼び出しておいて、恋愛感情における男女の優越論などと云う、この世離れした論争を繰り広げる。愛において、男と女の愛にはどちらの方がよりよく純粋性を保ちえるものであるか。アンは当然のことながら、長く持続すると云うことにおいて女性の方であると云う。大佐は、遠洋航海に出る離別哀惜の情を綿々と述べ、行動性の強さゆえに愛も強いと主張する。双方に譲らない。論議はお開きとなるかに見えるが、実は引っ込み思案のアンの恋愛観を一般論として語らせせて、そこにウェントワースへの思慕が重なっていることを、書き物に没頭してるふりをしている大佐の耳に届けると云う離れ業と云うか、高貴な企みがあったのである。ウェントワースは二人の会話を聴きとがめて書いていたペンを思い余って取り落とす。
 この男女の恋愛論を通して得られたのは愛の優越であるよりは、アンの経て来た長き青春の日々がもたらした歳月に向けられた述懐、――本当の愛情や貞節を女だけの特典と考える様なら、そんな女は見下げはてた存在であること。男たちは世の艱難辛苦に堪え、にもかかわらず女の愛情からすらも見放されてあるとするならば、余りにも男と云う存在は可哀そうすぎる、云々と云うものだった。
 これを聴いたら、どんな鈍感な男でも愛の告白と云うことに気づいたであろう。
 
 ジェイン・オースティンの最後の作品、『説き伏せられて』。何かに似ていると思えば、シェークスピアの『冬物語』を思い出していた。
 共通するものは何もないのかもしれない。イギリス王朝史の熾烈な権力闘争を間近に見聞したと思われるシェイクスピアの文学と、首都の喧騒を遠く離れて悠々自適の如く典雅なる家庭小説の祝祭的儀式のタペスリーを織づづけた主婦業の達人、平凡性の象徴であるとともに時代思潮に抗する手強い保守陣営の擁護者でもありえた、生涯独身であることを貫いた誇り高いイギリス人女性との間に!
 オースティンに悩みはなかったのだろうか。しかし本源に還って、人生とはなにか、真実とは何か、とハムレットのように性急に過激に自己が問われるとき、人生の外に回答を見つけようとするのではなく現世のなかに、ある幅を持った人生の厚みのなかに可能で最適なものを見出そうと云う姿勢において共通するものが感じられる。たしかに時期を逸したもの、失ったものは痛恨の如く帰らない。人生論とは常に既に後の祭りであるとは本当のことだろう。分別盛りの二十八歳にもなったアン・エリオット嬢の克己練磨された人生経験と人生観照の果てに見出されたものが、愛ではなく愛情との取り違えである、と云ったところでどうなるものでもないだろう。
  年ふって、確かに彼らはロマンスを、と云うよりは情熱を学んだのである。人はこの世の中で何ものかであるためには情熱や熱情と云うものがなければ、何ものかであることはできない。
 
 
 
ジェイン・オースティン『説きふせられて』(1818)Persuasion 富田彬訳 
岩波文庫 1998初版2007年10刷
 
※ Persuasion「説き伏せられて」、には賛否両論があって、以前は単に『説得』とされていたようです。