アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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オースティン『エマ』・Ⅰ アリアドネ・アーカイブスより

オースティン『エマ』・Ⅰ

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 『エマ』は不思議な小説である。小説技法の巧みさと云う点では神技と云うものを感じさせるし、内容の平明さ、平凡さ、と云う意味では年齢からする衰えをも感じさせるが、しかしかく云う批判的言辞の一片を連ねながらもなお、偉大なる才能の持ち主を前にするとそれを自信を持って主張することが出来ない。
 
 第一に述べておきたいのは、オースティンの作品では例外的に「エマ」と云うタイトルロールのような題名がつけられている点だろう。彼女は「エマ」において何を描こうとしたのであろうか。なに不自由なく育ち、才能や教養の点でも何となく人並み以上にできてしまう、――その長所が家柄やその他の俗性ゆえに周りの人びとからは卓越した人格として認められ、常に賞賛の言葉を持って迎えられ、分別が出来る頃まで過ごしてきたと云う設定は、実を言うと近代小説の主人公の設定の仕方としては尋常ではない。しかし自惚れと云うよりも、周囲がそれを認めるのであるから主観的な思い込みとは言えないわけであって、ただ過剰な自負が人生観上の選択に関わる問題に接した場合に、判断力はことごとく裏切られてその咎は自らに還ってくる、と云うのがこの批判的小説の概要と云えば云えるだろう。
 
 この小説を簡単に紹介すればこのようになるだろう。育ちと云い才能と云い万事幸運に恵まれたエマ・ウッドハウス嬢は、私生児ハリエット・スミスの面倒を見ることにある。彼女は自らの価値観に従ってハリエットにはレディになって欲しいと思っているから、せっかく寄宿舎時代にまとまりかけていた村の農夫・ロバート.マーティンとの縁談をご破算にしてしまう。その代り持ち出してきたのが村の計算高い牧師フィリップ・エルトンだが、例によって表情を婉曲のままにしておくのが上流階級の仕来りであると勘違いしているヴィクトリア朝式の偽善性ゆえに、エマとエルトンの本音と建て前は交差しないまま、結局ハリエットを失意のどん底に陥れるだけに終わってしまう。結局、エルトンの何が悪いと云うよりも、彼は最初から持参金付きの娘が婚約の第一条件だったのであるから、むしろ咎は一方的に自らの価値基準を他者に押し付けるエマの不見識にこそ向けられるべきであるが、作者オースティンはそのようには考えずに、エルトンの利己心や計算高さだけを一方的に槍玉に挙げる。彼女が示すしばしばの勘違いは、自らの清教徒主義的独善性、非寛容さを白日の下に、押し出し強く胸を張って読者の前に晒す点だろう。
 
  村にはもう一人の謎めいた女性がいる。ジェイン・フェアファクスと云うのだが、何でも幼い頃に軍人だった両親と死別し、その後父親の友人の家族の好意で引き取られ、実の家族と同様に愛されて成人したのだとか。その軍人家族には一人の娘がいたのだが、その娘が容姿その他に於いて十人並みであったのに対して、フェアファクス嬢はいわゆる優れた女性の特質を備えて実の娘以上に愛されたとか。にもかかわらず実の娘との関係は良好で、今日に於いても良好な関係を維持している。しかし時の流れはいつまでも子供の関係であることを許さず、実の娘の方は最近幸せな結婚生活を手に入れて夫の新しい任地アイルランドに旅立ち、また新夫婦と両親、あるいはフェアファクス嬢との関係も普通以上に濃厚で、家族を挙げて数か月アイルランドの新家庭に同行することになり、当然フェアファクス嬢も――家族同様の関係であったことから、同行されると思われていたのだが、今回に限り辞退し、いまは唯一の親類筋である叔母の親子が住んでいるこの村に休養のために帰っている、と云うことなどの事情が謎めいて語られる。
 この家族と新家族のことは最後まで伝聞以上のものとしては語られないが、姜家と麗しい人間関係の数々としか思われないのであるが、エマは勝手に新家庭とフェアファクス嬢との間に禁断の三角関係があったのではないかと想像する。
 と云うのも、エマは決して認めたがらないことであるが、教養、技芸、そして容姿その他に於いて卓越したものがあるフェアファクス嬢の登場は、見識、家柄その他に於いて村一番を自認するエマの権威を揺るがしかねないものがあったと想像されるからである。さらにエマが認めがたいのは幼い頃より兄弟同様の関係で育ってきた若き農園の主ジョージ・ナイトリーに対して、彼女が潜在意識の領域では自らの他に代えがたい筒井筒の関係を想定していたかも知れず――実際にはそのようにドラマは進行するのだが、その場合は村一番の彼女を凌駕するフェアファクス嬢の存在は強力なライバルとして立ち現れる可能性もないとは言えないのである。こうした潜在的利害関係が存在することは、エマがフェアファクス嬢を正当に評価しにくい位置に居ることを物語っているのだろう。エマを、諸事万事が恵まれた日が当たる世界の代表とすれば、日陰の花のように咲いたフェアファクス嬢は、対極にある陰陽の関係にあると云えるだろう。
 フェアファクス嬢について考える場合、作者であるジェイン・オースティンとは本当はどんな女性であっただろうかと空想をしてみる場合、彼女の思い出を語る光線は小説の世界同様の平均化され、一様に平板化され照らされたロココ模様の、美術工芸品的なパステルカラーの額縁絵画に縁取られ、凡そ何事かの真実をここから読み取ることには不向きなのであるが、それに加えて没後の彼女の文学に奉げられた神格化がただ事ではなく、それを受けて描かれた彼女の肖像画と云われるものも相当に理想化が働いている、とされる。そううすると「理想化」と云う手法は彼女が創造した小説世界のヒロインたちにも及んで、実際のジェイン・オースティンとは控えめで遠慮深く慎ましいとされたロココ風の肖像画は、もしかしたら評価されることなく日陰の花の時代を寡黙に生きたジェイン・フェアファクス嬢の素直さや率直さを欠いた、自然が赴くがままの開放性と云う美質を矯めた生き方に手掛かりがあるのかもしれない。
 
 小説『エマ』の世界のなかから以上、ハリエットとフェアファクス嬢と云う対照的なキャラクターについて紹介したわけであるが、二人の立ち位置の違いは性格のみではなく、前者が狂言回しとして劇の進行役として利用されたのに対して、後者はより本質的な意味での影の主役として、オースティン的なロココ的な照明に輝く正の世界に対する、存在論的に対極にある影の世界に生きる人物を配置することで小説世界としての構造を両翼に於いてロココ様式を安定させる、という意味を持っている。
 それからどうしても言っておかなければならないのは、晩年の大作とも云える小説世界に於いてジェイン・オースティンは人知れず自らの自画像を秘かに描いたと云うことなのかもしれない。もしかしたら、ありそうにない想像を言うのだが、彼女は人に好かれる性格ではなかったのかも知れない。自らを無防備に、そして他者の前に晒すと云うことが出来ない人であったのかもしれない。つまり真に人から愛されると云う経験を未経験のままに過ごさざるを得ない人であったかもしれない。それゆえにこそ生まれながらして誰にでも愛されると云うエマのありそうもない性格、絵空事は、ジェイン・オースティンにとってだけ、リアリティを持ちえたのではなかったか。
 それでも日陰の花に終始するかに見えた不運の私生児のフェアファクス嬢が物語的世界の最後には周囲に認められて受け入れられたように、これはこれでこれもまた生涯を孤独と孤愁のなかで過ごしたジェインのもうひとつの失われた顔、もう一つの夢であったのかもしれない。
 ジェイン・オースティン≒ジェイン・フェアファクスなのである。(フェアファクス嬢こそ最後の作『説きふせられて』のアン・エリオットに連なる人間像なのである)。二人のジェインの関係をさておいて、今まで語られてきたエマをめぐる物語は真の主人公が誰であったかについて、古今様々に語られた諸家の諸議論に於いて無感覚、無神経であり過ぎたとは言えるだろう。
 
 
 
ジェイン・オースティン『エマ』Emma、1816年) 安部知二=訳 中央公論社 昭和40年4月初版印刷