アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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オースティン『エマ』・Ⅱ アリアドネ・アーカイブスより

オースティン『エマ』・Ⅱ

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 さて、それからの続きであるが、村の牧師エルトンの意思を取り違えたエマは失敗に凝りて、ハリエットに対していらざる世話は罪造りであることを学ぶ。にもかかわらずハリエットの傷心を見るに見かねて様々に手当を使用と試みるのだが、その中の一つに、――これは願望に留まったとは云え、フランク・チャーチルの存在があった。
 フランク・チャーチル!読者にとって一番共感を得にくい存在である。フランクとエマの繋なりと云えば、エマの家庭教師兼亡き母親に信頼されていた友人でもあるアン・テーラー嬢が再婚先として嫁いだウエストン氏、彼の先妻には名門のチャーチル家があって、亡き妻の名残である一人息子のフランクは本家に後継者がいないことから請われてチャーチル家に入ったとされている。
 この息子は、裕福な名門眷属に迎え入れられて何不自由なく暮らし、他方では母に死なれ、幼いころから実家から引き離されて養子としての待遇を感受せざるを得ないと云う、厚かましさと自己防衛的な遠慮と云う相反する不思議な性格を身に着けることになった。
 このドラマでは後半においてしか語られないのだが、かれは過去にバースと云う保養地で細やかな恋をした。その相手が持参金もなく身分も不安定な私生児・ジェイン・フェアファクスであった、と云うことなのである。当時の時代背景から見て、名門の子弟が素性はともかく後ろ盾を欠いたいち私生児の若い娘と結ばれるというストーリーはありそうもなかった。そえでこの恋は秘密の世界のなかの出来事として終始するほかはなかったのである。
 にもかかわらずと云うべきか、時の経過は偶然の奇妙な組み合わせを生み、和合とも云える幸せの道を開いた。家門意識の象徴であった義母がなくなり、フランクの不決断に業を煮やしたフェアファクス嬢が乾坤一擲とも云える、家庭教師の職を得、職業婦人として世の中に泳ぎ出ようと云うのである。彼女の蒲柳な体質が家庭教師の過酷な環境に堪え得るとは思えなかった。彼女の切羽詰まった決断の無防備さが、ようやくフランクの優柔不断の終わりを、つまり「決断」をどうにか生んだと言えようか。
 良くしたもので、フランクの秘められて秘密の開示は不思議と義父には受け入れられ、周囲の理解も得られた。秘密をカモフラージュするため彼はエマにも近づき、あるいはエマからハリエットの将来の相手として非公式に差し向けられても明確な意思を表示しては見せなかった。それで曖昧なままにエマに導かれるがままに、またもやハリエットをめぐって悲喜劇が演じられることになったのである。
 さらに、かれは当のエマとも相応しい関係とも周囲からは観られていた。例によって彼はより周囲の誤解を自らの秘密をカムフラージュするために積極的に利用した。二人の関係を夢のなかに描いていたウエストン夫妻にとってはフランクとフェアファクス嬢との電撃的な婚約の開示は、夫妻にとってクラスがより上位であると考えられるウッドハウス家と長年にわたるエマとの人間関係からしても、大いなる罪作りであると思われた。しかしエマにすればそれほどフランクに関心をひかれていたわけではなく、これは嬉しき誤解としてそっけないほど上品に処理されたのである。
 とはいえ、煽てられてその気になっていたハリエットの傷心にはただならぬものがあった、と云うべきだろう。
 
 このあと小説には明瞭には書かれていないことであるが、いくらおとなしいいいなりのハリエットにしても度重なる自らの悲運さに、復讐心を抱いたのではなかろうか。それとも彼女の方で勝手に思い違いをしていたのであろうか、あろうことか当のナイトリー氏から愛の告白と見まがうほどのものを受け取ったと、エマの前で告白したのである。
 エマは、このところ悲運さに付き纏われえいるがゆえに、このありそうもない縁談話をそのありそうもない性質であるがゆえに信じた。こうして彼女の周囲で彼女だけを除いて幸せなカップルが巣立っていくのを見るにつけても自分だけが立ち遅れたの感じないわけにはいかなかった。彼女の脳裏を婚期を逸して老嬢となって於いていった縁故知人たちの面影が幻のように過ぎる!自分もやがてはああなるのであろうか、と。
 こして万事休す!の状況の中で、全ては彼女の思い過しであったこと、ナイトリー氏は彼女以外のことは考えていなくてものごころついたころから好きであったことが明らかになる。こうして万事は目出度し目出度しのなかで幕を迎えると云う意味では他のオースティン作品と変わらない。
 変わったのは、まさに円熟期を迎えたジェイン・オースティンの不確定性な筆の運びである。オースティンの文学が前例もなく、後継者も欠いて編み出した固有のロマネスクの技法こそ、天才とは誰のことであったのかを読者は思い知ることになるだろう。