アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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柄谷行人のマクベス論を批判的に回顧する アリアドネ・アーカイブスより

 
 
1.
 人間は如何なる時代に於いても 意味 を求めてきた。例えば、わたくしたちはどこから来て何処へ行くのか、とか、この世に存在する意味はなんであるのか、であるとか。しかし意味に憑かれ、意味が認識や行動の主体だる我々から独立して、意味自身があたかも一つの人格を持ち、逆に、われわれを「対象」として、「もの」として反作用を及ぼしてくる、という時代は確かに、近代-現代に固有の現象であったかもしれない。
  意味を求めづにはおられない人間存在の様式、過剰に意味付けられることから来る閉塞化、・・・・・
 
 以上が近代以降の時代と意味の関係をめぐる柄谷行人と云う先鋭的な評論家が、とりあえずはシェイクスピアマクベスを論じる地平と云うことになる。ただ惜しむらくは柄谷の姿勢の偏りは、意味の自己疎外(意味の物象化)、――ヘーゲルであれば自己外化とでも呼んだろうものの存在を、あくまで自意識の延長線上で、過剰な意味に囚われたもの達の、意味に憑かれたものの悲劇として問題を提起したことだろう。それで柄谷のマクベス論は思わせぶりの大型の問題提起を予想させながらも、なにゆえシェイクスピア四大悲劇のなかで『マクベス』のみが異質であるのかと云うことを、単純に、意味付けられることの拒否、として解いてみせたのである。間違ってはいないとわたくしも思うけれども、逆に言うと、これで彼が何を言いたいのかが分からないのである。1970年代の初めと云う時期に、こうした問題提起をすることの動機の固有さが分からないのである。
 
 意味付けられることの拒否!と云うことだけであるならば、わたくしよりも一つ上の世代――つまり柄谷たちの世代以上とフランス実存主義との関係について、いまさら蒸し返さなければならないのだろうか。この世代にとって一時バイブルの如き存在でもあったサルトルと、とりわけ小説『嘔吐』の関係を想い出しさえすればよいのである。
 『嘔吐』と云う小説は、あらゆる意味連関を離れたぞれ以前の生の原質、――「原存在」としか言いようのない、現象に先立つものとを遭遇を描いた物語である。無為に日常を過ぎる高等遊民アントワーヌ・ロカンタンはマロニエの樹の根っこを観ながら存在の原質に直面し、名状しがたい気分に襲われて「嘔吐」する。原存在とは、カントの物自体のようなものである。題名の由来はここから来ている。
 しかしこの小説はここで終わりではなく、――確かに柄谷の言いうようなヨーロッパ特有の原形質遺伝、つまり「意味付け」と云う、二段階目の跳躍に挑戦しようとする。それがあの美しい小説の終結部、アントワーヌ・ロカンタンの信条告白と『嘔吐』のエンディングなのである。曰く――現象は存在に先立つ!
  或いはアントワーヌ・ロカンタンの今後を敷衍して言い換えるならば、そもそも「本質」なり「絶対的な真実」など存在しなかったのである。それらは尾鰭背鰭をつけた中世の形而上学的遺物、亡霊に過ぎない。むしろ我々は物事に本質がなく、人生に意味がないと云うことを積極的に認めて、人生は空白と主張してもよいのではなかろうか。それは意味を奪わたものの悲劇なのではなく、むしろ書き込むことが可能な白いキャンバスの如きものが人生なのであり、それが自由と云うものの意義なのではないのか。そこからサルトルは、人間とは投企する存在である、と云うことになる。つまり人間とは自らの無記名な未来の空白に「投げる」存在なのである。つまり人間とは、己を未来に向かって実現しようとする過程においてだけ存在する時間的存在なのである。
 
 つまり柄谷には釈迦に説法の如くかかる第一次戦後期の言説を蒸し返すことは気の毒なのであるが、しかし文芸論としての土俵としては、一段ロケットか二段ロケットかという違いに過ぎず、意味をあくまで主体性論の枠組みの中で考えている点では同じだと云えよう。むしろ柄谷の言説は不可避的にサルトルの自由論の方向へ分岐して行く可能性が一方には確実にあるわけだから、何らかの形でサルトルについて批判的に言及すべきだったろう。
 むしろこういう議論はフランス実存主義が華やかなりし時代に済ませておくべきではなかったか、わたくしが先に柄谷が1970年代の初めごろにかかる言説を開陳することの意味が分からない、と云ったのは以上の意味に於いてである。
 
 意味作用なり意味付けを、あくまで主体性論なり自意識とを絡めた関係で解こうとする柄谷たちに固有な問題提起なのであるが、もともと事象や物事を大なり小なり意味付けられずにはおられない人間にとって意味作用とは、任意に意味付けたり意味付けを拒んだりできる主観性のレベルの選択の問題ではない。意味付けを拒む、あるいは意味付けられることを拒否すると云う姿勢ですら、雄弁な意味作用なのである。これは人間が言語と云う媒介手段を用いてものを考えたり行為をするという、人間存在の根幹に係る次元の問題であって、意味付け意味付けられることの呪縛は、自分の影を飛び越えることが出来ると空想するのに等しいほど愚かなことなのである。
 それは人間存在が言語を用いるかぎり、言語を言語を用いて乗り越えることが出来るかと架空的に問うことと同様に、ヴィトゲンシュタイン的な意味で、ナンセンス!なのである、と云うことは柄谷にしっかりと云っておかなければならないだろう。
 
 『マクベス』冒頭の魔女たちの有名な呟き、――「きれいはきたない、きたないはきれい」は、言語や論理の自律的法則は、現実との裏付けを失った場合にあらゆる価値転倒が可能であることを語っている。その価値転倒を柄谷がシェイクスピアに固有のリアリティであると言い張るならば、彼は彼自身が深刻な影響を受けたという70年代初めの連合赤軍派の事件の影響の影から一歩も逃れ出てはいない、と云うことを語っている。「きれいはきたない、きたないはきれい」の論理がまかり通った結果、あさま山荘で、大菩薩峠で現実に何が起きたのか!
 
2.
 ジョージ・スタイナーが『悲劇の死』と云うことで言っているのは、言語の変質の過程で悲劇を担いうる巨大な人格が歴史から失われたという意味である。悲劇の死とは、ギリシアの演劇と比べて、一神教キリスト教のヨーロッパ的システムが所詮は悲劇を不可能にさせダンテの場合のように「喜劇」にしかならない、という悲劇/喜劇論と言う表面上の分類だけを意味しているわけではなかった。
 この悲劇論の彼の感慨は、アウシュヴィッツ以降を問うと云う彼の思想家としての姿勢として一貫している。20世紀以降に起きた出来事は、言語に絶すると云う意味で、柄谷とは違った意味で意味付けられることの拒否を人類は歴史の側から受けとったのである。
 
 ヒトラーや東条とそのシンパシーたちは、マクベスのように、罪ある行為を自らの意志とは異なった、自己意識の外部にある名付けようもないあるものが追行するがままに是認したのである。ちょうどマクベスが自らでないもののの手によって次々と侵される殺人を悲劇の「当事者」として「傍観」していたように。
 それゆえアイヒマンは罪を感じることがなかったのであろうし、罪を感じることがない不感症の者どもが多く戦後という時代を生き延び、生き延びただけでなく戦後社会の復興の過程で枢要な役割を果たすことになるのである。「偉大なる我がお爺様」岸信介のように!ハンナ・アーレントは「悪の凡庸さ」と最高レベルの皮肉をぶっつけたが、人類史の課題はそこに留まらなかった。
 きれいはきたない、きたないはきれい、――いま平和憲法とテロ「等」準備罪法案をめぐって国会で論戦が繰り広げられている。憲法条項の「きれい」を「きたない」へ、条項外部の「きたない」を「きれい」へと輸血し入れ替えようとする、マクベスの追従者とその子孫たちが我が国の永田町に居る。この者たちは自らの意思で考えているように自分では思っているけれども、言語から疎外されているために、自らの成しうる行為が自動的なオートノミーに動かされてでもいるかのように、自分自身の臨んだ成り行きを他人のように傍観するのである、マクベスのように!
 たとえ失敗しても、それを主体的意思に於いてしっかりと執行したという記憶がないため反省をすると云うことも不可能なのである、これもマクベスのように!舛添要一石原慎太郎安倍晋三、昨今メディアを沸かせる人物に共通する言動は、自らの行為を自らの意思に於いて決断したと云う記憶を持たないと云う、マクベス的な様態においてであることは、象徴的とも云えよう。柄谷の他の著作の題名を騙れば、まさに「畏怖する人間」たちだと云えよう。
 柄谷行人が1970年代にマクベス的人間像に興味を寄せたのは皮肉ではなしに先見性があったのである。知的不誠実と云う意味で、ABEと永田町のお仲間たちだけに該当すると云う、極めて特殊な限定項をつけてではあるが、今ごろになって氏のマクベス的人間像が現実性を帯び始めたと云うことは、笑って済ませる問題ではない。
 
3.
 結論がかくの如きのものであれば詰まらない、永田町の話に拘泥したと思われても心外なので、もう少し続けよう。
 ジョージ・スタイナーが『悲劇の死』で語っているのは、悲劇は繰り返し起こっていながらも、歴史とそれを担う人物との関係が根本的に変化した、と云ことである。悲劇に釣り合うことが出来ない小ぶりの「悪の凡庸さ」に担われたとき、歴史がどのような要素を呈し、どのような邪悪な現実を呼び寄せたか、と云うことを語っている。
 スタイナーが次に語っているのは、絶えず創作するもの側が提供する遂行過程において、第三者の眼とも云える観客や舞台装置をめぐる演劇的言語の衰退と、入れ替わるようにして登場してきた叙事的小説的文体のなかで、言語の機能として何が得られ、何が失われたか、と云う点である。
 前者は政治哲学の領域であり、後者は言語と文体論の問題である。わたくしが今回特に主張したのは、後者の散文に関する話題なのである。
 近代の散文的小説的文体は背後に神の如き作者の位置の偶像崇拝が認められて、長らく文学研究とは如何に作者の意図を正しく正確な位相の元に取り出しうるかと云う読解の営為と等値されてきたのである。ここでは確かに柄谷の言うような、意味を求める言説が卓越して来ることを見るのは容易であろう。ここから柄谷が近代に固有な現象としての意味の過剰と云う問題点を取り出して来たことも一定の必然性があったのである。問題は、ここから彼が意味付けられることの拒否、と云うテーマを短絡的に選んだことだろう。わたくしたちは意味付けられるこのと過剰な要請を他に代わるものとして、史料批判とか科学的客観性と云う手法で修正することはできるけれども、意味するもの意味されるものの根絶と云うことを一個の言説として立論することはできないのである。
 むしろ「悲劇の死」と云う事態のなかでわたくしたちが失ったものとは、ルネサンス以降の近代史的な展開のなかで形而上学や神学的権威にたいする批判作業に倦んで、近代小説や散文精神のなかに機会あればと窺がいつつある作者の超越論的な立場の是認が、古びた神学的な装いの再現ではなかったか、と問うことなのである。そうして文学だけではなく、科学的立場と称されるイデオロギーを超えた不偏不党の立場のなかに含まれる形而上学的な残滓、科学の体制依存に陥りやすい言語としての脆弱さに無関心であってはいけないと云うこと、意味祖述だけに拘りがちの散文精神のなかに、如何にして多元性を再現し、復元していくかと云ういことが、文学の問題に限っても今日問われていることだろう。
 話しをシェイクスピアに戻せば『リア王』は新旧の時代の交代期にあって古い時代の倫理に殉じたものたちの物語である。リア王は倫理や道徳よりも自らの都合の方を優先させる時代の到来を呪ったけれども、これを言語とすることはできなかった。『マクベス』もまた時代の端境期を描いているけれども、新旧何れの時代にも生き得ない男の不意決断を描いている。男の逡巡の過程を、現代的な悩みである、リアリスティックだと柄谷のように評価することも可能だが、問題は意味や言語からの逃走ではない。『ハムレット』の登場人物たちのなかの枢要なもの達は、マクベス的非決断の立場を、自らがずるずると流され成し得ている行為に対して、最後は主格としての主語を与える。つまり意味は回復され、悲劇を引き受けると云う行為のなかでひとは人間となるのである。
 シェイクスピアの四大悲劇のなかで哀れを留める人物と云えば『オセロ』のデズデーモナであろう。彼女は自分が最愛の夫に殺される理由もわからず、殺さないで!と懇願しながら死んで逝く。こうした悲劇は歴史を見ればその表裏に関わらわず幾多見出されたであろう。このような人間は現実にも人生にも救われなかったがゆえに、生き残ったものたちの間に、思い出の言語として語られるほかはないのである。言語は人生や歴史よりも少しほど大きく、間違っても意思疎通の手段としての媒体なのではない。たとえ人は死んでも思い出の言語のなかで、死を生きると云う死者たちのもう一つの人生が始まるのである。
 
 
 
(使用したテキスト)
柄谷行人『意味という病』 昭和五十四年十月初版印刷・発行 河出書房新社