アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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二人の一葉 あるいは「闘う一葉」について アリアドネ・アーカイブスより

 
 
 樋口一葉には二つの側面がある。一つは一千数百年に及ぶ日本古典文学の掉尾を飾る古今源氏由来の、手弱女の流れを汲むものとしての物語作者の側面である。いま一つは、擬古典的な文体と文飾を巧みに使い分けながら、近代の問題、とりわけ、それを子供の視点――絶対的な受動的受苦としての非投性の立場から――描こうとした近代作家、己の実存の在り方を拠り所として示す、闘う知識人としての一葉樋口夏子のことである。なぜに一葉が近代作家の魁となるかと云うと、彼女の文学に描かれた子供の描き方が、近代そのものの到来を意味していたからである。補足するならば、後年、「子供」と云う概念は近世・近代のこの世のことで、それほど古い起源を持つものではないと主張した柳田国男に連なるものが彼女にも感じられる。また一葉は、定在的あるいはかかる静態的な立場を越えて、子供と云う極限的にして絶対的受動性と云う立場から世界の構造を考えようとした近代作家としての違いはあるにしても。
 確かに、巧みに過ぎると云う点は、贅沢な話だが長所にも短所にもなりえよう。もし代表作とされる『たけくらべ』があれほどの完成度に達していなかったならば、鏑木清方描くところの、通念通りの樋口一葉像はかくも強力には定着しなかったに違いない。最後の日本人として、封建制道徳に殉じながら、他方において倫理道徳の非合理さを、理不尽さを見据え、時には荒々しいまでの嫌悪感と軽蔑とを「冷笑」的態度のなかに仄かに浮かべながら――女性の復権などと云う短射程の問題提起においてではなく、普遍的な人類として、類としての人間を、性としての女を、そして時間性としての子供世界の固有さを考えた、血が出るような、生々しい女性像について忘却する、などと云うことはなかったに違いない。一葉の文学について語るとは、『たけくらべ』一作のみを語れば十分であると云うようなことを口吻に漂わす、ある女流作家の自信たっぷりの言い分など、先入観を前提とした、歴史性をみない、浅はかな一葉理解に過ぎないことは間違いないことだろう。
 数年前、三ノ輪にある一葉記念館を訪ねたおりに感じたのは、あれほど廓の社会について描き得た一葉にとって吉原は過渡的な通過点に過ぎなかったことだった。一葉の痕跡を、見栄えのしないありふれた東京の下町風景の中に探しても無駄であった。歴史的風雪が全てを変えてしまった、とは言いながらも、下谷龍泉寺町三百六十八番地の生活は九か月に過ぎず、よそ者ゆえに鮮明に脳裏に焼き付いたのかもしれないし、あるいは過ぎ行く旅人の眼でこそ瞬時に全容を見透す、と云うことは、天才にはままありがちなことなのである。
 小説の完成度ゆえに女としての、生理的体臭を醸しださせる人間・樋口夏子の映像は見分けがたくなっているが、『十三夜』、『大つごもり』、そして『にごりえ』においてこそ、日本近代文学の黎明を先駆的に予告する、闘う戦闘的一葉像は、ここにその先鋭的な戦端を開いた、と云うべきなのである。
 『十三夜』、『大つごもり』、『にごりえ』の有機的な関連性を見よ!『十三夜』の若妻が離別を思い諦めるのは託された子供の夢ゆえにであり、『大つごもり』の少女が運命に対して果敢な態度をとれないのは子供の世界の固有さゆえにである。最高傑作『にごりえ』の売れっ子酌婦があるいは心中と、見ようによっては観れるし、そうともとれる両価と両義性の間で、背後から袈裟懸けに両断に切られ人間としての最低の死を死んでいく哀れさも、憐れさを留めながらもなお、狂気の世界に一歩踏み込んでシェイクスピア的悲劇的決断を己が実存としての身をゆだねるのも、子供の世界と云う、――非投性としての義務と権利が極限において乖離する世界構造の根源的不合理!として――固有なものの価値ゆえにこそであった。彼女の近代文学者としての先駆的姿勢は、世紀末的同時代人として『カラマーゾフの兄弟』のイワンとアリューシャの対話を彷彿とさせ、酷似してきているのである。
 子供の世界は、大人たちが懐古的に観るような無邪気で無心であるばかりの世界であるわけがない。はたまた、チャールズ・ディケンズの時代に描かれたように子供とは単に「小さな大人」であるわけでもない。子供でも大人でもない、端境期に固有な世界、マージナルな境界性にこそ実存として佇つものの意識の底流を流れる時の過激な過逝くものとしての過渡性こそ、アイデンティティとしての青年期や思春期の「発明」とともに、柄谷風の言い方をまねびて言うならば、「近代」に固有なものなのである。