アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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サガンとデュラス アリアドネ・アーカイブスより

サガンとデュラス

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 かって十八歳の少女の衝撃的なデビューとも云われたフランソワーズ・サガンの『悲しみよこんにちは』を今日改めて読むと、フランスの伝統的な恋愛小説の最後の作家だ、と云う感が深い。
 従来この小説は映画化されて、セシルカットと云うボーイッシュなファッションで話題になったが、本当の主人公は、小悪魔的セシルによって罠に掛けられて不可解な死に追い込まれていく、父親の愛人・アンヌである。
 家庭の中心に妻なる座が不在で、それで父と娘は潤沢な資産を基に自由気ままに生きると云うのが、戦後の上流社会の風景らしいのだが、様々な一世を画する戦後的な衣装にも関わらず、滅びの道を歩むアンヌの人間像はまるで古い館か忘れ去られた古城の応接間に掲げられた年代記肖像画であるかのように古めかしい。ここに云う古めかしさとは、ステロタイプとしての絵にかいたような古めかしさではなく、自分に掛けられた嫌疑や罠のあれこれを薄々と知りながら、それに抗うことをまるで断念したかのように、運命が定めたものを追認する、その素直さである。まるで高貴さと云う言語以外は知らないかのように、まるで無抵抗のまま滅んでいく。いこの絵にかいたような古典主義振りが、遥か昔のシェイクスピアの様ざまな戯曲のヒロインの生き様を思わせるのである。
 フランソワーズ・サガンの古めかしさは、描いたヒロインの人間像だけに留まらない。彼女の抱いていた人生観なり恋愛観が、十九世紀までのフランス文化が抱いた愛についてのエッセンスの最後の残照と余香のようなものを留めていて感銘深いのである。人生様ざま、人様ざま、ひとは与えられた環境と運命の相の下で如何様にも多様に生きることができる。悲観的にも楽観的にも、多弁にでも寡黙ででも、そして内省的にでも行動的にでも、あるいはサガンが描いたように虚無的にでも!語ることは出来る。しかし快楽と享楽的生き方のなかに己を失ったにしても、愛そのものに対する信頼は失われてはいない、と云うのがフランス文化の伝統の一方にはあった。かかる意味では、サガンは、フランス文学とフランス文化の伝統に位置する最後の作家であったと云う気がしてならない。なぜならこれ以降、愛がこのような形で描かれたことはなかったからである。
 
 それではサガン以降、愛はどのように描かれたのだろうか、その問いに対する答えが、例えばマルグリット・デュラスの場合である。
 デュラスがインドシナと云う植民地出身と云うことは象徴的である。愛についての伝統的な関係から絶縁されたところに、デュラスの愛の世界は成立する。それは愛と云うよりも被虐の愛であり、人間的なものに対する無機性としての愛である。
 代表作『モデラート・カンタービレ』に於いては、主人公たちの出会いに先立ってあった、痴情事件めいたものがあった。しかし二人の男女は、世間の冷たい観方にも関わらず、狂気と背中合わせの愛の燃焼を事件そのもののなかに見出す。はたして自分たちは、かくも過酷な愛の純粋性ゆえの燃焼や狂気にもにた愛の気圧によく耐えることができるだろうか。過去の魔術的なと見える痴情事件のまわりをめぐって同心円的に愛の同時性を生きようとするのだが、黒ミサめいた二人の儀式には最後の何かの一歩が足らない。事件は最後に酒場のあの血痕が残った板張りのうえで足踏みをし、二人は亡骸のようになった自らの骸を引き摺って、人生と云うドラマから去っていく。
 
 つまり古典期の愛のようには愛はもはや生きれないと云う思いが、一方ではサガンのように、古典主義恋愛小説最後の、愛についての絶対的とも云える信頼感の相の元に描かれることもあれば、デュラスのように愛に対する老婆のような干からびた魔女めいた嘲笑!でもって終わりを告げる、と云う終わり方をすることもある。
 二人が活躍した1950年から60年代とはそのような時代であった。余談であるが、かかる二人の体質の違いが68年のパリ革命に於いてのコミットメントの違いを生むことになる。破壊と変革を熱望した世代に支持されたのはデュラスのほうであった。