アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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オスカー・ワイルドの『サロメ』  アリアドネ・アーカイブスより

 
 
 ワイルドの『サロメ』を読んで思ったのは、なんとなくシチュエーションの『ハムレット』や『マクベス』などとの類似である。
 間断なき直情性を有する妻と、老練の野心を抱いた政治家でありながら、一面においてだけ優柔不断であらざるを得ない、奥行きをもった武将像と言いう意味で、ワイルドが創出したヘロデ像は、クローディアスとマクベスに似ている。他方、配偶者であるガルトルードとマクベス夫人は対照的であるが、夫の運命に対して外側から働きかける動意と云う意味では同様の役割を果たす。この二人の夫人が最後に自らに降す選択は、それぞれに違いがあって、前者は運命に対する曇りなき明晰さに於いておラマ自身の枠組みを超えるのに対して、後者は結局は優勝劣敗のマキアヴェリズムが勧善懲悪のモラルを超克することができずに、古い時代の価値観に呪縛されtまま狂気のなかに死ぬ、と云う違いはあるにしても。
 
 ところで覇道の権化であるところのヘロデにとって、サロメはどういう意味を持っていたか。サロメと云わず預言者ヨハネは共々どういう意味を持っていたか。一方はユダや法が定める厳格な法の実践者としてヘロデの言動を指弾して止まない。他方、姪でもあるサロメとは、先王の忘れ形見と云う意味でも、できれば相殺することができれば一石二鳥である、と云う冷徹な計算が働いたのか。
 
 以上のような物語的世界を背景として、ワイルドの独特のサロメ像が出現してくる。サロメは、新約聖書に描かれたような王妃ヘロディアスの傀儡ではない。ヘロデ王と王妃ヘロディアスにあるのは、何々のためのと云う目的意識の喪失であり、自らの無根拠性を保証するために歴史的記憶は出来れば抹殺できればよいと考えている。かかる思想的な意味での最大の敵対者こそ、雁字搦めの歴史意識に縛り付けられた伝統的ユダヤ教の民と預言者たちの群像なのである。
 ユダヤ教的歴史意識と、ヘロデ的現世主義の時間意識が対決軸としてこの物語の背景にはある。時間性なきヘロデの現世主義の極限は、物質崇拝、観念論的にはフェティシズムとして現れざるを得ないだろう。フェティシズムの極限的な表現が、彼にとってのサロメと云うことになる。ヘロデは彼女の七色の踊りのなかに、自らの物心崇拝とその対極にある、精神主義的な厳格主義の対決のドラマを見る。対決の構図は自身の自己矛盾の拡大された構図なのであるが、かかる歴史的緊張感の中からやがてイエス・キリストは生まれてくるのであろうし、ヘロデ的な野望もユダヤの民の千年王国への願望も歴史的暮色の暗がりの中に消えていくのである。