アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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花を探しに・・・・・ ”秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず”――式部と潤一郎、康成そして兼好 アリアドネ・アーカイブスより

 
 
 
 六十年代の高揚期のあとを受けて運命づけた二つの書、『源氏物語』と『細雪』と。しかしこの二つの書は、櫻花の絢爛を隔てて対照的である。
 潤一郎の『細雪』は、祝い事や祭事の黄金色に輝いた鯛の色調と同様に”月並み”と云うことの典型である。しかし、月並みと云うこと、潤一郎の場合はこれが並大抵のことではなくて、日々を繰り返すと云うことにおいて、平常を維持する無限の意思の如きものなのである。日々継続されてあること、これは並大抵のことではない。日本人の平和への思い、日々の暮らしへの安穏さへの思い、凡庸に生きることへの賛歌のようなものが、太平洋戦争と云う未曾有の国難多事の状況下に置いて書き継がれたこの抵抗の書には顕著にして非凡なものとしてある。
 他方、紫式部的王朝の美学の固有の翻案の仕方であり昭和的再生の一手法である川端の『雪国』には安易な死への予感と賛美がある。国境のトンネルを超えた神秘と不思議の御伽の国、雪国に持ち帰ることのできない秘蔵の華を探し求めに行くと云うお話は、式部の北山のさる僧院に山桜を求めに行くと云う『若紫』の翻案である。異なるのは、『雪国』においては秘蔵の華を眺めるのはデカダンスに侵された傍観者の目であるが、『若紫』においては、愛おしい思いを、こころに痛いと感じる感受性のあり方、長年追い求めた理想の女性像と実在の一致などと云う西洋的な恋愛観ではなくて、相手のことを思うと心が震えるまでに可哀そうであると云う思い、同情心と異性への関心が区別できなくなったある種の感情である。
 ご存知のように、フェティシズムに捕らわれた潤一郎はこの種の恋愛感情を描かなかった。
 
 毎年これからは桜の花に再会する度ごとに、これら三様の櫻花に対する想いはより強く、蚕の糸のように途切れるかと見えてなおも継続作用を維持しながら、反芻されてそれが思い出の形をとるにつれて次第に弱まりつつ思い出されることであろう。
 山に桜を求めに行く、山桜に会いに行くと言い換えてもよい現象である。神秘的な感情である。山に桜を探しに行きながら得られず、虚しく坂道を降っていく宇治十帖の薫の君にはついにこの段階に達することはなかった。しかし彼の経歴や資質をみればやがては源氏の生き方が懐かしい生き方として蘇るときがあるあるだろうとは、容易に想像できることでもある。宇治川の早瀬に自らの影を映して思う揺蕩いは、朝霧の深さにもまして、水嵩を増す宇治川の流れにもまして、ある時は激しく、ある時は呟きにもにた余韻嫋嫋として余白の欄外に途切れて行く源氏のフィナーレではあった。
 ここに一人の男がいる。吉田兼好と呼ばれた男である。冒頭の、あやしうこそものぐるほしけれ、は様々に解釈されるけれども、この異常ともいえる心の高鳴り、高揚感は、さしずめ坂を降り来った薫の君のその後の姿、後日談とみてもよい。
 
 はなはさかりに、つきはくまなきをのみみるものかは、の男は満開の花見に、満月の宴に背を受けた世捨て人の姿でもあった。この男にとって桜花とは、眼に見えるもの、心眼としてみるべき幻想の風景へと形を変える。
 侘びや寂、乞食道とも云える今日の茶道の起源にもなった利休風の貧相な美学の持ち主であったのではなく、華やかな王朝的な宴や室町風の茶会が果ててののち、飲み終えた一椀の茶の淀みにもにた自服の果ての乾いた余情と云うものがこの男にはある。此の世の定め、あの世の定め、この世で起きたことの一切は茶の湯の一椀のなかの出来事のようにみる達観がこの男にはある。しかしこの男の素晴らしさは、この男の一期の達観をも超えて心の揺れは生涯、間歇的に浮かび上がる思い出のように、微弱に震え続ける余震のようにも次第に弱まりながらも、間をおいて続いたと云うことであろう。不甲斐なさの典型のような薫の君、そして不甲斐なさを誇らしくも生きた吉田兼好、と。やはりこと果てたのちも夕映えを背に受けて、こころは愛の残照のなかに映えていただろう。
 京都のほどない西郊に双ヶ岡と云う小丘がある。愛を憐憫として感受する感情、哀惜のあまり愛を心痛き思いと観ずる想いは むかしおとこ の家持や業平以来の伝統として永らえて、この男はそこで暮らした。
 
(付言) 秘すれば花なり、秘せずば・・・・・ 
 世阿弥のところまでいかなかった。
 かかる言を、世上のように解すれば、秘めてこそ真実のであり得る、と云う意味だろうか。賢しらを排して己の真を秘める、と云う姿勢は葉隠武士から宣長らの時代思潮に感染した幕末の志士たちにまで、あるいは明治初期の神風連の青少年たちを越えて5・15、2・26、戦後の三島事件にまで尾を曳くものであろう。
 しかし世阿弥の言が語っているのは、舞楽の言として語っているのではなく、演ずるものの体として語っていることである。秘められたままではそれは芸術になることはない。言として、言葉として、身体的所作に体現された体言として表現の在り方を語っているのであって、秘められたままの痩せ我慢、歯ぎしり、あるいは秘められたままでの思慕は、所詮は表現者としては犬死に等しい。
 
 語りつくせないものがなおもまだある。秘すれば花、秘せずば花なるべからず・・・・・、秘すると云う我々の意識の陰影の中でこそ命ながらえるものがあるのに、あからさまに対象として語ったのでは逃げ去るものがある。通常の言語をもってしては所詮は蝉の抜け殻を虚しく抱きしめるだけに終わってしまう。それゆえにこそ、秘すれば花、秘せずば花なるべかららず、なのである。
 しかし世阿弥の言のとおり、秘したまま黙したままでは花は咲かない。秘したものが言葉となってこそ花は咲くとは言えるのである。秘せるものを言としてではなく態として演じてみせるとき、顧みられた自分自身と云うものがすなわち言葉――ことば、と云うものの誕生を、その起源を語っているのではなかろうか。演じてこその秘すれば花なのである。