アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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サガネスク・クァルテット・ルネサンス アリアドネ・アーカイブスより

 
 
 将来おきるかも知れないフランソワーズ・サガンの文学の再評価のために、初期の四つの作品が持つ、独特の小宇宙観、――と云うか、ロマンティックでエレガンスな、サガネスク的世界の小宇宙的なまとまり、その文学的完結性について下準備としてこの論考をまとめる。
 
 『悲しみよこんにちは』は、戦後の自由恋愛とアヴァンチュールと云う風俗下の世界のなかで、自らは意識することなく、高貴に、愛のフランス的な概念ゆえに滅んでいく女性の話である。
 滅んでいったのは、スタンダールバルザック以来の愛の文学である。愛の訪れは人を至福へと誘うこともあれば、ままならぬ不如意さのなかで絶望と破滅の世界へと人を堕としこむこともある。しかしフランス文学とフランス文化――とりわけシャンソンと云う歌謡形式において変わらないのは、にもかかわらず愛なき世界は砂漠なようなものであり、たとえ個々の人生そのものには満たされることがなくても、愛の絶対性に対する信頼は、変わらない!と云うことなのである。
 『悲しみよこんにちは』の真のテーマは、セシルと云う小悪魔的な語り手の蠱惑的な魅力に禍されて見えにくくなっているが、抗うすべもなく愛の高貴さのなかに滅びの道を選んでいくアンヌと云う中年の女性である。彼女は明敏で明察な洞察力をもった知的な女性でありながら、全てを見抜いていたかにも思われて、許しのなかに死んで逝く。セシルも流石はサガンの分身だけあってそのことを意識の一端に留めはするのだが、万事都合が良ければと、安易な方の道を選んでしまう。
 彼女が滅ぼしたのは、アンヌではなく、アンヌに仮託された、古いフランス文学の伝統である。もはや小説はスタンダールのようにもバルザックのようにも語れはしない、と。
 『悲しみよこんにちは』は今日から見ると、彼女の文学宣言だったように思われる。
 
 二番目の作品『ある微笑』は、過行く時と云う無常さの概念に照らしたとき、自分にはかけがえのないと思われた一個の愛すらも、モーツァルトのワンフレーズにもしかない、と云うお話である。
 ベルトランと云う同世代のソルボンヌ風のきちんとした若い世代の風俗にも馴染めず、彼らによって代表される確からしさの風貌を確立させるかに見える戦後にも馴染めない、かといってレジスタンスの世代は遥か彼方に去ったいま、彼女の前にいかにもアンニュイで人生に枯れたと云う魅力ある中年の男性が現れる。
 二人は、愛について語られた時代はとうに過ぎたと云う認識の上にたって、無言の前提として、言わず語らず愛のアヴァンチュールを提案する。やがて季節の移ろいのようにアヴァンチュールには終わりが近づく。愛から突き放されて、初めて自分とは何だっかと彼女は自問する。そこには寂莫とした孤独があるだけだった。全てを失って孤独になって、孤独さを噛みしめて彼女は思う。孤独とはそんなに悪いことなのだろうか。むしろ孤独さのなかで自分が自分であると云う自由さの誇りを手に入れることができるのではなかろうか。
 孤独と哀切さと自由の観念は、そのときたまたまラジオから流れていたモーツァルトの自在な音楽とのあいだに微妙な協和音をサンジェルマンの空の下の刻む!わたしはひとり、一人の孤独な女である。だからと云ってそれが何だと云うのだろう。
 愛の絶対性がもはや文学のなかにしかないと観念したサガンの文学が、時の形而上学と云うべきテーマに遭遇した瞬間であった。
 
 『一年の後』の流行らない作家ベルナールが小説が
書けないのは、彼が抱いている文学観の古さにもよるだろう。彼の古臭さは同時にフランソワーズ・サガンのものでもある。
 彼は心の底ではジョゼと云う明晰な女性を愛しているのだが、二人が共有する価値観のなかでは、それは昔話の世界であり、あえて言えばもはや文学の世界のなかにしか存在しないなにかである。自分の周囲には、いまだにスタンダールバルザックの世界のように、野望を遂げるために勇猛果敢に人生と云うドラマに挑戦するものたちもいるが、とりわけ芸能やジャーナリズムの世界では。二人はそうした自分たちのまわりで演じられるドラマの生末を哀惜の念を持って、祈るように観ている。
 そうして一年がたって、自分たちの廻りにも多少の変化はあった。しかし顔ぶれにニ三の変化はあったにしても変わらないのは自分たちである。人生の傍観者たることを定められた自分たちには、永遠に、生きると云うことはあるのだろうか。
 文学と云う観念ゆえに、生きることができなくなった人たちの話である。
 
 『一年の後』のジョゼやベルナールたちとは対極にあるもの、それが『ブラームスはお好き』である。ブラームスのように愛を、音楽を信じられたらどんなに良いだろう、と云うお話である。現代の御伽話と云ってもよい。
 人生に無防備な生き方をするシモン青年は、ポールと云う中年の女性に出会う。彼女にはロジェと云う別の愛人がいるのだが、彼の純愛についつい絆されてしまう。十歳以上も若い青年に愛されれば誰しも悪い気はしないだろう。人生に疲れた中年の女の哀愁と、既に諦観と云うものを学んだ痕跡すらある青年の純情が、雨にけぶるパリのさり気ない街頭風景の中に目立たず、旅人のように、儚く消え入るようにも描かれて情緒纏綿たる余韻のようなものが香る、ブラームスの三番を聴いた後のように!
 しかし彼女の大人としての明察が別れの必然性を青年に厳かに宣告する。残酷な宣言を受けた青年は思い余って彼女の前から走り去るが、不幸に向かって走るその後姿が、まるで愛に向かって全力疾走する姿、のようにポールの眼にはには見えた、と云うのである。
 現実にはあり得ないお伽噺であることが、二人の年齢差によって暗黙の裡に語られている。シモンのマザーコンプレックスを指摘するのは容易だが、そんなことは大したことではない。ロマネスクは今日に於いてはブラームスの音楽を聴くときにしか存在しないのかもしれないのだが、絶対にないわけでもない。
 今回のマクロン夫妻にかかわるフランスの選挙結果の仔細について、彼らの純情を誰しも尋ねてみたいと思ったのだろう。日本ではまるでこの手の話を聴くことができない、なぜだろうか。