アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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ブレヒトの『アンティゴネ』アリアドネ・アーカイブスより

ブレヒトの『アンティゴネ』

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 ソフォクレスで有名なギリシア古典悲劇のブレヒト版である。古典悲劇と相違する点は、相争うアンティゴネの二人の兄弟たちが相打ちする敵同士ではなく、奮戦してお国のために討ち死にしたものと、敵前逃亡したものとの違いとして、同じ死者の命運を歩みながら、現実の政治の場では差別的な扱いを受ける、という設定である。
 第二の違いは、コロスの扱い、劇中の人物とは独立した、ある意味では観るものの心情の自然な代理として舞台中央に迫出てくる合唱隊が、ここでは「長老たち」として、必ずしも中立的とは言えない、体制追従型の事なかれ主義者たちの群像として描かれている。
 第三の違いはアンティゴネを殉教者としては、必ずしも美化されたものとしては描かれていない点であろう。むしろ妹のイスメネの方に委曲を尽くした描写がなされ、彼女は、女であることの役割の限界ゆえに、出来ることとできないことを分別しつつ、かといって姉の直情的な心情が理解できないわけでもない揺れる気持ちのなかで、現実的に撮り得る行為としてはアンティゴネの意思に殉じると云う姿勢が、理性あるべきものとして、中庸の人物として、好意的に描かれている。この点ブレヒト劇では、単に中立的と云っても、先の長老たちの扱いとは微妙な違いを滲ませている。
 
 しかし本来アンティゴネのテーマは、人間界の事象や出来事に限らず、死者の権利とでも云うべきものを、古代の巫女の風貌と面影を伝えたアンティゴネが、世俗権力のクレオンと対峙する、と云うい意味合いであったはずだ。
 戦争にどう関わったかの違いが死者の扱いにどのような影響を与えているかと云う以前に、死者を裁くとはどういう意味を持っているのかの根源的な意味を問うているのである。
 この対立は、公の立場と竈を司る地縁・血縁の地霊神との対立であり、公の政と祀りの対立でもある。世俗権力と宗教的権威の対立、対峙でもある。
 死者は死することによって、絶対に到達する。アンティゴネの抵抗は、一人であると云えどもこの絶対を背中に背負うことによって、死者の語りを代弁し、代弁することによって総体としての生の世界に相対するものとなることになる。
  
 本来、弔うと云うことの原義はどういうことであるのか、アンティゴネは黙示のよって言外に顕された象徴的行為に於いて語る、と云う意味に於いて、ほの暗い祀りごとの人類史的起源を語っている。
 
 
 
2.アンティゴネとオイディップス
 アンティゴネはオイディップスの娘である。母と子との間に産まれた呪われた宿命の子供たちである。その結果、四人いた兄弟の二人は敵同士として合間見えて討ち死にし、いま、残された姉妹のアンティゴネの方が死の運命を選び取ろうとしている。
 スフィンクスの謎かけに始まる『オイディップス』の悲劇は、認識をめぐるドラマであった。認識をめぐる限界は、オイディップスの自らの眼を抉り取ると云う自己処罰的な行為に於いて完結する。認識を越えるものは、幻想的透視力であり、それを行為へともたらす意志の力があった。認識や行為を超えた、その先にあるものをオイディップスは語ることができない。
 翻ってアンティゴネは、妹のイスメネも言うように、女としてあるがゆえに限界ある存在である。オイディップスのような透徹した認識も、行為も意志の力も存分には振るえない。自らが主体的に選択し、意志し、行為すると云う精神の自由度を持っていないのである。
 彼女にあるのは、受容性としての愛である。死者から仮託されたものとしての、死者が死を生きると云う意味での普遍的な意思なのである。死者と云う他なるものの意思を聴くとは、何かを知るための認識ではない、また、何かを成すための行為や行動でもない、認識や行為を超えたもの、――それを到来性の言語と名付けるならば、彼女が最終的に至りついた段階とはまた、宗教が発生する段階以前の沈黙の黙示的時間なのである。
 沈黙の黙示的時間の始原性のなかで、言葉が生まれる。
 
(使用したテキスト)
ブレヒト作『アンティゴネ』 谷川道子訳 光文社文庫 2015年初版