アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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ゲーテの『親和力』と『若きヴェルテルの悩み』が齎したもの   アリアドネ・アーカイブスより

 
 
 日常的な時間と、愛に関する時間は別の起源を持っている。
 
 『親和力』は、いわゆる二重不倫の問題、明らかに不倫の物語でありながら、それを理性的秩序のもとに偽装しようとする偽善の問題、その本音と建前の論理が我々に強いた不自然さが齎す、強いられた運命と命運の薄情流転の物語である。
 
 『親和力』は、二組の男女の間に生じた物語、神の観念に淵源する愛は、如何なる場合も俗世間の仕来りや価値観に卓越しうるのか。一組は、愛の至高性の観念ゆえに愛の論理に従おうとする。二人に悔いはないのか。もう一組の男女は、大人の常識と経験に即して愛を抑制しようとする。結果は、四人ともどもが悲劇的な死か、この上ない不幸と挫折感のなかで生涯を終えることになる。
 
 その不幸の象徴が、不手際から水死させられる、愛の結晶たる、赤子の事件である。
 この事件を神秘的な啓示として、一方の乙女は自らを絶食状態に追い込み、自己処罰としての理性的な「即身成仏」を図る。
 
 相思相愛と思われていた、自由意思による自由恋愛の内容もまた、突き詰めて考えてみれば、愛の超越性とは、この世で物象化する術もなく、愛は炎のように、この世の理性や秩序を焼き尽くす。伝統的な姑息因循の愛だけでなく、理性的な大人の愛も、ロマンティックな自由恋愛の観念すらも!凄まじい!としか言いようがない。
 
 愛の非妥協性については、ゲーテは既に『ヴェルタ―』において語っていた。現代の大人や青年たちと違って、ヴェルタ―には人妻を愛することについての後ろめたさがまるで感じられない。なぜなら、愛とは強力な羅針盤が固有の方向を示すように、神に淵源する固有の言葉として、世俗やこの世に超越するからである。
 
 ヴェルタ―に付き纏われる、ロッテ夫妻についても、かかる観念を許容することにおいて違いはない。そこに彼らの優柔不断さがみられる。神によって課せられた運命の言葉に逆らうすべはないからである。
 
 結局、他人に散々迷惑をかけておきながら、ヴェルタ―は独りよがりの愛の観念のなかに死んでいく。生き残されたもの達は、留めるすべもなく、愛の破壊力が破壊し尽くすがままを見守るしか術はない。多くの有為な青年たちがその跡を追う!
 ヴェルタ―は、賞賛されるべきか、裁かれるべきであるのだろうか。
 
 罪の子の自覚に耐えられず、自死の運命を選び取る乙女・オティーリェ、彼女には数千年の歳月の重みがもつキリスト教の教理が、すなわちアガペーとしての愛が象徴されている。彼女の衰弱死に見せかけた、神の現前での殉死は、価値ある行為と云えたのか。ゲーテの生涯をかけたキリスト教に対する果敢なる乾坤一擲の気迫にもにた挑戦的意思と、気迫をわれわれは読み取ることができる。
 
 同じく、キリスト教的な観念の前に、乃木希典のように自らが死すべき機会を、他律的に求めづづける、エドヴァルトの不決断と、他動性にこそ、ゲーテの辛辣な嘲笑をこそ、言葉の沈黙の中に我々は聴きとるべきであろう。オーティリェによって象徴されるものの一つに、ドイツ的リゴリズムの典型を、愛なきカント哲学の不毛さを暗示させていると考えても良いだろう。
 
 
 シャルロッテの理性的狡知についてはどうだろうか。愛の観念と世俗の取り決めを、相対的に相互的に尊重し、この世の次善であるべき幸せの在り方を模索し続けた人間の良識と見識を、所詮は愚かな振る舞いと断じることができるだろうか。彼女によって象徴されているのは、啓蒙主義思想のなれの果てである。ヘーゲル的な理性の狡知が嘲笑されていると考えてよいだろう。あるいはシャルロッテエドヴァルトの物語は、ドーヴァ―の海の向こうのジェイン・オースティンが織り込んだ、手工芸の至宝、『説得』の二人の”それから”に、皮肉と云うべきかそっくりなのである。イギリスの経験主義的な処す越論へのゲーテなりの批評と考えても良いだろう。
 
 残された最後の人物、”大佐”とは誰であるのか。理性の人・シャルロッテが最終的に愛する人ハムレット的優柔不断の夫に成り代わって、最終的に愛した対象。にもかかわらず、かれは不吉な運命に黙して一人淋しく舞台を去っていく。
 このような地獄絵のような世界の時間を生き延びた男にとって、さらなる別様の人生などあり得るのか。
 
 結局、『親和力』の後半に挿入される”水の洗礼”が語るような、一対の男女が自らの生命を代償に差しだした乾坤一擲の思いにも似た、水の洗礼の儀式のみが、四人の人物がそれぞれにおいて辿った、あるいは辿ることになる命運の淀みを浄化しうるのではないのか。
 『若きヴェルテルの悩み』は、単独者の実存的行為であるゆえに限界を課せられた。双方の運命が拮抗し、それが自らの意思を越えた決断として、到来する時間を”水の洗礼”として受容するもののみに、聖性としての命は与えられる、と考えるが如何なものであろうか。
 ”水の洗礼”とは、宗教以前の”自然”に帰ると云う意味である。
 
 まとめると、このようになろうか。
 『親和力』の四人の主要な登場人物たち、エドヴァルト、シャルロッテ、オーティリェ、”大佐”によって何が象徴されているのかを推測するのは必ずしも容易ではない。
 エドヴァルトには、現代文学が、主としてハムレット型の自省主義的な文学が象徴されているのだろうか。
 その妻であるシャルロッテの理性主義には、ヘーゲル風のドイツ精神の秩序志向が根付いている、と考えてよいだろう。
 彼女の姪にあたるオーティリェには、二千年に及ぶキリスト教の伝統が、――とりわけ、プロテスタント的なモチーフと、カント哲学から現代の実存主義までの、所謂ドイツ的精神の主要場面が射程に入っている、と考えてよいだろう。
 ”大佐”に代表されるのは、マックス・ウェーバーが云う現代の「魂を欠いた技術者」の問題が、すなわちあらゆる超越的価値への志向を欠いた世俗性と科学主義を、現代人の精神が象徴されている、と考えるべきか。
 
 ロココ的静謐と優雅さのなかに語たられるヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの『親和力と』と『ヴェルタ―』は、人類史の深層に迫る恐るべき恐怖の作品群である。