アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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ゲーテの冷酷さと暖かさ・3  魂の不倫 アリアドネ・アーカイブスより

 
 
 魂の不倫とは何か。それは自然性に反するだけでなく、この世の掟の神聖もまた穢すことを意味する。エドゥーアルトは肉体的和合の背後にオティーリエを幻想し、シャルロッテエドゥーアルトの肉体の背後に大佐を思い浮かべる。親和力が齎した和合の力はあらゆる障害を乗り越えて、幻想や創造力と云う力をかりてこの世を貫徹する。その怖るべき成果をみたとき、四人は四人ともある感慨に打たれる。この世に生まれ出でて来た赤子は、メンデルの遺伝の法則に反して、愛の親和力の法則に従ったのである。誰もがエドゥアルトとシャルロッテの子供であるにもかかわらず、エドゥーアルトとオティーリエの面影を認めた。つまり四人の間では長らく観念としてとどまっていた魂の不倫と云う概念は実体化したのである。自然な愛の親和力の結果生まれ出でたものは、もう一つの不自然であった。
 愛の理法としての親和力としては自然であっても、その生まれ方が不可解であるがゆえに、赤ん坊が生きているかぎり、自らがなした行為ゆえに、四人は身動きが出来ない。オティーリエの不注意に寄って赤子が湖に溺死したとき、この世に於いて解決を図ると云う四人の目論見は打ち砕かれた。エドゥ-アルトは自暴自棄になって、愛の世界に向かって、この世のなかの誹りを受けながらも行動を起こす。彼の成す反社会的な行為が、オティーリエをより深く宗教の世界に追い詰める。彼女にとり得るのはあらゆるこの世との関わりを断つと云うことでしかない。しかし宗教的世界の懺悔や改悛と云う行為も、自然の理法の前には非力である。彼女の不決断が取らせた絶食と云う非人間的な行為は、人間を超えた行為として、宗教界と信心ありきの俗物たちに利用される。
 自然による緩慢な死を選ぶと云うこと、言い換えれば彼女がもはや生きることを望んではいないと云うこと、愛すらも万能ではなく、愛こそがオティーリエを死に追いやり自分たちの間を隔てる巨大な障壁として聳えるよう立ち塞がるのを見たとき、エドゥーアルトのなかにも生きる意欲と云うものが根本的に失われていた。
 若きゲーテたちに始まった、シュトルム・ウント・ドランク、疾風怒濤、フランス革命期の余波を受けて生まれた、ある意味でのゲーテたちが生み出した孤児たちは、この四人のようであったと云いたいのだろうか。理性のひとシャルロッテは同じく理性の実務家、建築家にして造園家の大佐と手を結ぼうとする。若き日の理想を革命期の理念に重ねてオティーリエの面影のなかに再度理想を生き直そうとしたエドゥーアルトはシャルロット、つまり理性との間に不可解な子孫を生み出してしまう。ロマン主義運動の象徴とも解されるオティーリエは、この世からもあの世からも疎外された、愛そのものが凍れる時間の中で孤独な死を死ぬ。死を死ぬとは、死と云う在り方を幾度も繰り返して反芻して死ぬと云う緩慢な死の在り方なのである。残されたシャルロッテと大佐もまた、己の死の在り方を死んで見せるであろう。この四人が辿った命運がゲーテが望んでいたことだったのか。
 
 ゲーテには、ひとが年相応に枯れると云う年齢になってもなお、清冽な青春の頃の理想が生きていた。それが『親和力』の後半部で語られる、「隣のこどもたち」と云う挿入話である。
 相思相愛の子供たちがいた。誰もが将来二人は結婚するだろうと思っていた。しかし二人は『親和力』のエドゥーアルトとシャルロッテのように、社会生活を選ぶに当たっては別の選択をした。時を経て、二人が相まみえることがあり、自分たちの不自然を恥じた。ひるがえって男は優柔不断であり、女は果敢であった。婚礼を前にしたある日、偶然から同じ船に乗船した二人は互いに見つめ合う。女はあの世への先駆を駆けるようにボートの先端から決然と濁流に身を投げる。命をかけた行為には命う投げる行為で報いなければならない!もはや逡巡や決断の時ではなく言語と言語とが響きあう、論理の次元に先駆して男は激流に飛び込んでいた。運命が二人を遠い下流の水車小屋へ押し流す。運よく瀕死の二人を介護した村の若い夫婦はあり合わせの白いシーツで二人を暖かく包んでやった。四五日たって重篤だと思われた二人に意識が奇跡的に戻ったとき、それがまるで婚礼の、簡素だが無垢で豪華な衣装のように誰に眼にもみえたと云うのである。こうした二人の命をかけた行為の前にはこの世の倫理や道徳、世事闌けた俗人たちの教訓や訓示などは成す術もなく退散するほかはなかった。命をかけた水の洗礼、乾坤一擲の行為のみが悲劇を救いうると云うのである。