アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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エーメ『小人』とエルザ・トリオレ『アンリ・カステラ』或いは平凡に生きるということの難しさ アリアドネ・アーカイブスより

 
 
 エーメの『小人』は幻想文学の部類に入るのだろうか。小人と云う奇形の身体的あり方ゆえにサーカスの必要な芸人たり得たものが、ある日突然に背が伸び始めて二三一もすると、年齢に見合った立派な青年になる。しかしその自然的な「立派」さは、サーカスの世界では不必要な特性なき凡庸さとしか評価されず、やがては立ち行かなくなって元小人はサーカスの世界を去っていく、そう云うお話である。
 エーメの文学がリアリズムの文学と違っているのは、小人を訪れた変容の過程の悲喜劇を描く眼差しの温かさである。小人は、猛獣使いやその他の役割を親方の行為で何度か習得しようとしても、平均値!以外のものは習得できない。つまりサーカスのような特殊な世界に於いては平均人であることは存在の理由にはなりえないのである。何事もそうであるが芸事の世界は人とは卓越したと云うところが必要なのだ。
 長年住み慣れたサーカスと云う特殊な世界と元小人の別れはある日失意のなかで観た観客席のなかで起こる。彼は眼前に繰り広げられる演技のひとつ一つを見ながら自らの失敗を重ねてみる。しかしそのうちに悲しみは吹っ切れて、自分であることも忘れて観客として見るという行為のなかに特殊な世界との別けれを経験する。つまり小人として生まれたことも、その後元小人でしかないような在り方に変化したことについても、彼自身には責任のないことなのだ。かれは群衆の一人となって点と化し、物語世界のなかから点景としての己の在り方も消していく。そんな元小人の変転を見守る親方や芸人たちの眼差しが暖かい。
 先回のベルナノスの『影の対話』は、日常の怠惰や倦怠に窒息しかかった女が固有の在り方を求めるお話であったが、エーメの小説は日常とは固有な在り方をするサーカスと云う特殊な社会から平均人として、無名の庶民として解放されていく青年のお話である。
 この青年が、何をやらせても駄目だが、平均値程度には遣れたというのがこの場合大事なことだろう。
 
 エルザ・トリオレの『アンリ・カステラ』はお菓子のような名前だが、個人の名前である。舞台はパリと南仏の地名は明らかにされないが、私はニースではないかと思っている。南仏ではこういう苗字も古い貴族にはあるのだろうか。
 ある青年がいて、彼の生存の様式が何でも平均値以上と云うのがここでのみそである。作家として、過去一応の成功は納めているし、風貌、社会的位置、資産とも平均値以上である。その彼が戦間期の終わり頃のある時期に社交界を彷徨い女性遍歴を繰り返すのだが、彼の弱点は踏ん切りの悪さである。郷里に置いてきた、むかし過ちから子までなした母を介しての縁談話に終止符を打ちえない優柔不断さがある。彼は人が好いから誰からも恨まれたくないと思っているうちに年月だけが過ぎ去った、と云うわけである。
 彼は風貌も人並み優れたものがあるから、社交界のひとも羨む美人とアヴァンチュールを重ねる。この女は高名な画家の夫人と云う設定であるが豪華な暮らしと夫とは別の暮らしを営むと云う自由を享受している。この女にとって彼と付き合うことは、ちょっとばかり名の知られた作家で風采も優れている洒落男は社交界のお付き合いの席上でのアクセサリー程度にはなると思っているのだろうか。彼もまた、これほどの見栄えのする美人を恋人に持つと云うことには誇らしさを感じてはいるが、白髪が少しだけ目立ち始めた初老の域に達し始めた夫人との恋は所詮大人の火遊び程度の意味しか持ちえない。その何事にも真剣になりえない彼に訪れる最後の決断とは、当時の風雲急を告げるヨーロッパの状況、誰しも世界大戦が現実のものとは思わなかった状況のなかで、万事優柔不断で不決断だったこの男が見違えるように行動的になって、徴兵を隠避するためにアメリカへの亡命を実現する件である。この過程で彼は優柔不断で不決断の男であると云う評判の他に、卑怯ものだと云う評価をも不動のものにしてしまうのである。
 これだけの過程を読むと主人公の行動と行動規範に関して何とも評価の難しい小説と云う気がする。第一に彼は物語小説の語りにたる主人公としての性格を持っているのだろうか。このように降らない青年の生き様を描いて作者は何を伝えようとしているのだろうか。愛にも恋人としても、家庭人としても、最後に作家としても一人前たりえない男の生きざまについて!
 
 しかし元々小説の主人公たると云うことに関して我々は過剰な期待なり期待を抱きすぎているのではあるまいか。彼が若い日の過ちから子供を産ませた母子をほったらかしにしているだけでなく、会おうともしない無常さについても、またこれに関連した彼の行く末を心配する母親への仕打ちにしても、よくよく考えてみれば悪逆非道とまでは言えまい。彼をご都合主義のエゴイストだと決めつけるにしては、彼のアバンチュールには利害がないし、友人関係にしても少しの得にもならない幼友達との交友関係を大事にしている。アメリカへの亡命にしても、あからさまな営業活動があったとはいえ、結局彼の望みが叶えられるのは彼にも何がしかの人徳があるがゆえにこそ、人々も動いてくれたのである。
 つまり戦間期のパリとフランス社会の一齣を描いたこの小説は、平凡さとか凡庸さと云う庶民の特性が次第に軍国主義愛国主義イデオロギーに侵されて、国民全体が冷酷化していく世相を描いたものとしてみると興味深いものがある。水際立ってひと際優れたものがあるわけではない平凡人アンリ・カステラがなにゆえにか、旧時代の価値観にいきる故郷の眼差しから冷徹の評価を受けるだけでなく、パリの非道徳的とも頽廃的ともいえる社交界の眼差しからも蔑視と悪意の軽蔑心を受け取る。こういう時に、こう云う時代に、国をほったらかすとはとんでもない!非国民と云うわけだ。私の眼から見ても最低のレベルに該当するものでしかない彼らの口からすらアンリ打倒の侮蔑的言説は出てきかねないのである。単に人に嫌われたくない、人を殺すようなことはしたくないと考えたばかりにこの始末なのである。
 エルザ・トリオレの『アンリ・カステラ』は平凡に生きることの困難さを描いている。