アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』と『遍歴時代』 アリアドネ・アーカイブスより

 
 
 ゲーテの中後期に関わる二つの代表作、大部とも云える大冊を読んで複雑な気持ちになった。『修業時代』と『遍歴時代』はかのゲーテの生涯を貫き、フォン・ゲーテ、四十代の後半から長寿を全うした彼の最晩年に及ぶ大作である。にもかかわらず、修業時代と遍歴時代の処方なり文体は、通常我々が近代小説と呼んでいる形式とはずいぶん違うし、それが教養小説と云うものの理なのだと云われれば返す言葉もないのだが、疑問は疑問として書いておく。
 まず、『修業時代』はともかく、『遍歴時代』は大変に読みにくい。その理由は、通常フィクション世界の親切な案内者を兼ねている「作者」なり主人公と云う便利な存在の存在感が希薄で、特に『遍歴時代』においては、主要な筋書きとは一見独立して、様々に所感や叙述、手紙などが生のまま、モザイク小説とも云えるほど雑多に挿入され、読者に勝手に想像してくれ、と云わんばかりなのである。その結果、主人公であるべくヴィルヘルム・マイスターの存在感や魅力は随分比重を後退させざるをえず、結果的に、本主旨の筋書きや主導モチーフとは別様の、魅力的な人物が様々に登場してくる。その典型が修業時代第六章の「美しき魂の告白」である。美しき魂の持ち主であるある女性は、ゲーテの生きていた時代における彼の理想を述べたものとも云え、もし文学史上で比較する対象を探すとすれば、プラトンの『饗宴』のディオティマを彷彿とされる。ただ、一読者としてこのような偉大な女性を唐突に紹介されても簡単には所感を述べることも論評することも、できるわけがないのであるから、読者としての困惑は一層深まるのである。
 困惑の第二点は、先に述べた論点とも重複するが、主人子であるヴィルヘルムの言動に作者であるゲーテがどの程度信を置いて呼んでいいのか、最後まで分からない、と云う点だろう。作者は主人公のヴィルヘルム・マイスターに当然ながら好意的であるが、しかし余りにも無条件的jに、好意的でありすぎるので、それが反って作者の叙述や言説に対して疑念を抱かせ、語り手の叙述を全面的に信用してよいものか、と思わせるのである。
 主人公や語り手が帯びている小説的世界に於ける絶対性の相対的軽さは、エピソード的人物の魅力あふれる創出と造形とも無関係ではない。あまり指摘されていることではないと思うから敢えて言うのであるが、例えば、修業時代のいっとう最初の方で、ヴィルヘルムが演劇的世界に関係していく短所の出来事として旅芸人の一座に関する座長とその妻と云う夫婦の独身時代が出てくるが、ゲーテが生きた時代は中世的価値観と秩序が徐々に変質し崩壊しつつあった時代であったと想像されるのであるが、その夫婦が、時代や社会の外れもの、局外者、アウトローとして、すなわちプロテストするものとしての生きている間は生き生きと精彩感溢れる存在であるのに、一旦、旅芸人の座長として社会的役割を担うようになるや否や、単なる俗物に変貌すると云った描出と創出の方法が、さながらゲーテ的な多面的な叙述の手法を秘めているかに思わされるのである。
 先に、ゲーテの二部作を読んで困惑すると書いたのは、実はこの小説が、近代小説に固有の作法に乗っ取って書かれていない、と云うゲーテの事情があったと想像されるのだが、むしろポスト近代以降の批評的小説論として読めば、より一層相応しいと云えるのかもしれない。修業時代と遍歴時代と云う小説は、もしかしたら最近流行の反小説なのかもしれない。
 この点、今後もゲーテの生き方とともに考えていきたい。
 
 ゲーテの修業時代と遍歴時代を簡単に紹介すれば、前者は近代的自意識と云う以前の、自我が社会の中で関わり合う在り方のなかで、演劇と云う手法が社会を改革するためにはどの程度有効な手法であるか、と云う問題提起であるように思われる。つまり、極言すれば芸術の、表現としての政治学、政治的機能の有効性に関わる問題である。結果的には演劇と云う手法の有効性については否定的な判断が下されるのであるが、なぜそれがそうなのか、わたくしには小説に書かれた範囲においては読み取れなかった。一つは演劇と云うものが言葉の先験的自律性に基づいており、対するにゲーテが遭遇しつつある、黎明期としてのプレ近代と云う時代は、言語がそれぞれの分野において自律性や純粋性を卓越的に表現し追及すると云う諸価値分立と自立を予感させる時代であったのであるから、時代批評としては演劇は建築などと云う分野と同様にその総合性が、純粋性を追求する時代の価値観からは次第に時代遅れになりつつある、と云う予感がヴィルヘルムにはあったのかもしれない。しかしヴィルヘルム・マイスターの価値観や言説を作者であるフォン・ゲーテがどのように評価していたかは、この小説を読んだ限りに於いては判然とは読み取れないのである。
 修業時代の後半以降、遍歴時代において顕著になる、演劇的手法を諦めて――と云うことは言語の先験的自律性と云う考え方や価値観を払拭し――社会結社的な在り方に社会的変革を期待しているかに見えるのだが、かかる志向は、作者のフォン・ゲーテが絶賛した無条件的絶対的言辞を弄しているにも関わらず、わたくしにはこれらの人物たちを全面的には信用できない、と云う感じを持った。むしろこれらの人物たちは清く正しく、世俗を超越した善性が溢れてい過ぎて実在性が感じられず、正直に言えば、気持ちが悪いのである。
 結局、修業時代と遍歴時代を通してゲーテは何を主張したかったのであろうか。演劇的手法によって社会生活を改善することに絶望し、さらに社会結社的在り方のなかに未来を夢見る、その夢の見方がアメリカに移住すると云う一見安易な方法であり、あるいはそこまで能天気には行かずとも、その理念を国内や地域地方へ、隔離された聖域サンクチュアリとして確保することをもって社会変革に替える、と云う両途の道を提案しているかに見えるのだが、どうも釈然としない。時々、フォン・ゲーテが漏らすアメリア移住の安易さについての感想や言葉にならない固有の口吻ぶりなどを参照しても、一層そう感じる。
 時代背景として、フランス革命に対する失望があることは間違いがないのだが、心情としては”我が心の内なる道徳律”を信奉したカントの理神論的な神秘主義に行きつくように思われる。同じ社会変革を求めても、ヘーゲルのように国家理性に絶対的な信頼を置くような発想はゲーテには無縁である。
 ゲーテの最晩年は、モーツァルトの『魔笛』のような神秘主義の鱗に覆われていたのだろうか。
 それから、修業時代と遍歴時代の間に成立した、例えば『親和力』のような不気味な世界がどのように克服されたのか、と云う点でもわたくしの疑問は完全には解けないのである。フォン・ゲーテの問題作『親和力』は、文明の不自然さがテーマになっていた。修業時代も遍歴時代も不自然さの極みにおいて、それぞれの人物たちをどのような運命が待ち構えているのであろうか。修業時代、遍歴時代、とにかくよく分からない小説である。
 どなたかわたくしの疑問を解いていただけないでしょうか。