アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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愛と同じくらい孤独――フランソワーズ・サガンの思い出の周辺 アリアドネ・アーカイブスより

 
 
 いわずとしれたフランソワーズ・サガンのワンフレーズ、ですが、この場のセンテンスの素晴らしさ、洒落たセンスに魅かれて、愛好家の方も多いようですね。
 ただ、サガン流の情感に流されるのも心地よいのですが、通常の日本人の感覚からすれば、愛と孤独は必ずしも馴染みません――例外の方はいらっしゃるとは思いますが。
 
 つまり、わたくしの言いたいのはこう云うことです。
 愛は群れ集うもの!――そこまで言わずとも、一組のカップルがあって、わたしたちは孤独ではないんだと確認すること、これが日本人の普通の感覚ではないかと思いますが。
 さて、サガンが言っているのは、愛を理解することと人間が孤独であることを理解することは、同期の出来事であった、と云っているのですね。
 愛とは、知的な営みですから、基本的には、ある程度人生が熟成されてこないと見えてこない現象です。ですから思春期の愛とか、初恋とか、純愛物語とかとは、本来はカテゴリーが違う領域の話しになるのです。
 
 先日、わが国の歌謡曲シャンソンの違いなどと云うことについて、小さな風呂敷を敷きかかって、ちょっと立ち話めいたことをしたのですが――。
 例えば、美空ひばりシャルル・アズナブール。ひばりが”悲しい酒”で情感を籠めて歌うとき、”この気持ち、わかるよね”――日本人なら!
 彼女が国民的な歌手であることがよく分かります。
 皆と同じであることに、日本人は安心とこころの拠り所を見出すのです。 
 
 同じ酒でもアズナブールの場合は随分違った酒になります、閉店間際まで粘って、ウエイターに絡みかねない泥酔の状態ですね。でも、フランスの男性は、愛の起承転結、愛情の季節の移り変わりについて、お酒のせいにしません。
 この自暴自棄ともとれる泥酔の様を歌った、唄ともモノローグともとれる一人芝居で演じられているのは、愛は深酒とともに意識を醒ます、と云うことなのですね。
 酒も飲みすぎれば意識を醒ますように、愛に酔うこともまた、フランスの男性に於いては愛の孤独の認識に誘うのです。
 泥酔と酔狂、そして見得を憚らぬ中年男のくたびれた悪態と醜態、――にもかかわらず、この失われたこの愛は、彼に固有のものなのです。他のひととは取り換えることのできない、自分自身の固有さ、をこの歌は歌っているのです。つまり自分自身である、と云う透徹した認識が愛の認識と表裏に同期のものとして到来するのです。
 これが”愛と同じくらい孤独”の意味です。
 
 もちろん”ひとり酒場で飲む酒”も、固有に孤独です。しかしこの孤独さには、みんなと共通する”孤独さ”の共通感覚と云う後ろ盾と云うものをもっています。話が脇に逸れますが、この共通感覚を持っていないとこの社会ではしばしば窮屈な生き方を強いられることもあります。
 しかしアズナブールの人生に疲れた中年男の孤独は、”君には分からない”孤独です、他者を拒絶する自分自身に固有の孤独なのです。
 でも、どちらが人として優しいでしょうか。
 
 誤解して頂ただきたくないのは、どちらがより孤独か、と云う話ではないのです。
 孤独であるという認識が、愛とはどういうものであるかを認識したときに同時に起きる現象であると云うことに対する、ひととしての、――驚き!なのです。
 愛の至福に酔う、個としての孤独からの脱却や解放ではなく、愛の到来が孤独であることの認識と同じものであったと云うのですね。愛の認識を通して、自分が孤独であること、孤独であるとは自分がどういう存在であるのかを実存の底に達してみて初めて知った、と云う驚きの感情だったのですね!愛を孤独と等価のものとして理解するとは、自分が自分自身であること、あるいは自分は自分自身でしかないこと、の痛切な認識を意味するものなのでした。
 孤独であるとは、自分が自分自身であること、自分自身の脚でしっかりと大地に立っている、大地に根差して手摺に縋っても現実に立ち始めている、と云うことなのですね。個が個人として独り立ちする、自立の原理なのですね。
 孤独であることがこんなにも晴れがましく素晴らしいことであることを教えてくれたサガンに感謝を奉げます。