アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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”ノルウェイの森” を廻る二人の悪党 その1 永沢さんの場合――社会事象としての村上春樹・第5夜 アリアドネ・アーカイブスより

 
 小説 ”ノルウェイの森” を廻る二人の大悪党と云えば、一人は永沢さんと呼ばれる学生寮の先輩で何かと懇切丁寧に地方出のワタナベ君の面倒を見てくれる東大法学部の学生であると作者によって紹介される人物であるし、もう一人は京都北部にその存在が仮構された阿美寮の住人、レイコさんなのです。永沢にはハツミさんというセットで考えられる恋人がいて、彼女への仕打ちを通して人でなしの構図が読者にも無理なく理解させる仕組みになっています。いっぽう、レイコについては、これは賛否両論でしょう。彼女の巫女的な存在感については作者としては異例とも云うべき告白録を作中に用意しているのです。
 
 誰ででもあるようであり誰ででもないようなエブリーマンとしての性格がワタナベ君の特性なのですから、両極の中間的保護色においてワタナベ君が特性のない男として語られるのは自明でしょう。つまりワタナベ君の匿名性は ”突撃隊” 君と、永沢氏の両極の間において理解するとこの小説の布陣的全容が理解しやすくなるのです。ですから永沢とは ”突撃隊” の正反対のもの、反定立と考えれば良いでしょう。
 
 この悪名高い永沢氏を日本近代文学のコンテキストにおいて読んでみたらどうなるのでしょうか。ワタナベ君が昭和の ”三四郎” であったとするならば、永沢は ”佐々木与次郎” に代表される第二世界の存在として特定できます。三四郎における三つの世界と云うのは、母とお光に代表される第一界、広い実社会を意味する第二界、美への憧れや都会のファッションに代表される第三界でしたね。小説”ノルウェイの森” は、青雲の志を持って都会で夢を実現するという三四郎の遠い末裔のお話なのですから、ここはどうしても永沢に第二界の代表として頑張ってもらわなければならないと作者は考えたのですね。
 
 ワタナベ君が三四郎であるとすれば、永沢は森鴎外の ”雁” なのです。都会の片隅で遭遇した冥界の女・エウリディーチェを金権や世俗から守り切れないだけでなく、図らずも加害者としてふるまう事になる結末のイロニーを意識の片隅にでも理解できない、真っ直ぐ人間なのです。明治の愚直な立身出世型の青年のイロニーに満ちた人間像を鴎外は描くことが出来ました。鴎外の文学の苦さは彼自身が物語の主人公のイロニーの原像の一つであることを明晰に理解していた点にあります。
 
 ですから永沢は、”雁” の地方出の愚直な青年よりも、これも地方出の森鴎外その人に似ているのです。才能にも知力にも欠けたるもののないオールマイティの存在は、ある苦渋を秘めています。彼の偽悪的なポーズこそ 明治期以降綿綿と続いた立身出世型の人間像の最終系の形があります。自分自身の有り方と活動の最終形を再帰的に理解するのですから、白けざるを得ないのです。
 
 彼の唯一の矛盾は、利害を超えたワタナベ君への共感です。本文を少し読んでみることにしましょうか。
 
 ”「俺とワタナベには似ているところがあるんだよ」と永沢さんは言った。「ワタナベも俺と同じように本質的には自分の事にしか興味が持てない人間なんだよ。傲慢か傲慢じゃないかの差こそあれね。自分が何を考え、自分が何を感じ、自分がどう行動するか、そういうことにしか興味が持てないんだよ。”(本文)
 
 つまり戦後社会の過程において子供たちは、教育を通じて、あるいは実社会における大人たちの生きる姿を通じて、自力の思想を絶えず植えつけられるわけですね。本音と建前の世界を巧妙に演じ分ける大多数の同僚たちの間にあって、少々感受性がまともな人間であるならば永沢のような考えを持つことも誠実の一つの証と云えば云えるのです。永沢は本当は傷つきやすい魂の底からこのように語りかけたいのですが、世の中は必ずしもそのようには受けとってもらえないのです。そこに永沢の哀しみというようなものがあります。
 
 永沢はやがて大学の最終年次になると安々と国家資格を手に入れ、独身寮を出て三田というハイグレードの町に引っ越しします。この立身出世の物語の陰で、ハツミは人知れず自殺を遂げてこの世に別れを告げます。永沢がハツミを心理的に追い込み、自殺に至らしめる過程は、やがてワタナベ君と直子の間で、相似形において繰り返されると云う意味で、先駆性を持つと云うべきなのでしょうか。
 
 永沢は、18年後のワタナベ君の姿でもあり作者村上春樹の横顔でもありました。この小説の冒頭の場面を思いだしていただきたいのですが、着陸を控えた飛行機の窓辺で主人公が、”また、ベルリンか” と独り言を言う場面がありますね。つまり海外慣れしているこの男性は一応の世俗的な成功者であることを言外に語っているのです。それはハツミを殺し、直子を殺し、60年代を通過儀礼として葬った村上春樹その人のプロフィールでもありました。
 
 永沢が、俺とワタナベは似ていると言ったとき、本当は資本主義体制下の自力や自立の思想のことなどではなく、お互いが内容がない空っぽの空洞であるがゆえに似ているというふうに思わなければならなかったのです。この世が空虚で空っぽであるように村上春樹の文学が一つの虚点、空しき空洞であると云う事についての認識でもありえなければならなかった、という読者の読みでなければならなかった筈です。
 
 小説”ノルウェイの森” の偉大さは、作者の認識や世界観を乗り越えて登場人物自身が自立し、小説的仮構の出来事だけでなく作者その人の存在の秘密に迫り、村上春樹その人の60年代における言動を論評するという空前の、この空虚さの実感に迫る所にあるわけですが、小説を読み終えて分かるのは18年後においてもワタナベ君は緑とは結婚しなかったし、”ノルウェイの森”が切り開いたメッセージは作者の思惟の彼方にあった、という寒々とした事実の認定のみなのです。
 
 功なり名を遂げた37歳のワタナベ君は初めて自分自身の空虚さを理解します。あの時は理解できなかったものがまざまざと甦ってくるのです。子供のように純真になって緑の沈黙に対して訴えたとき、彼は本当の意味で生きたいたのです。仮面が外れて素顔が露呈しかかっていました。誰でもあると同時に誰でもないエブリーマン氏が、固有の自分自身であることの確認を叫ぶことによってしか実感できなかったあの18年前の無知さ加減が、いまありありと甦ったのです。しかし彼の叫びは、ガラス箱の中に閉ざされて外部には一切届いては来なかったのです。