アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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辻邦生の ”安土往還記” と ”天草の雅歌” アリアドネ・アーカイブスより

 
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 フロイスの ”信長公記” は気になりながらいまだに読んでいない。辻邦生の ”安土往還記” を読みながら、生き生きした信長像の記述に接しながら、信長がそうした人物であったかどうかと云うことよりも、”人間” というルネサンス的な画像が、その頃の日本には不在だったのではないか、とふと思ったのっである。もちろんこれは単なる思い付きだから、フロイスの同書を読んでみないと何とも言えないわけである。
 この本を読んで、織田信長という人間像とともに安土桃山と云われた時代についての見方が少し変わった。信長の好き嫌いの激しさ、これは近代人に近いものがある。目に見えるもののみを信じ、理性的判断のみを確かなこととし因習に敵対する、よく流布された人間像ではあるが、それを外国の元船員の視点を通じて描いたところに説得性を感じた。
 辻邦生歴史小説における主調は、”背教者ユリアヌス” においても ”春の戴冠” においてもルネサンス及びルネサンス的な歴史の展開点を描く点にある。幸い日本の戦国時代を舞台にしたこの二つの作品はそれぞれその黎明の時代と終焉期を描いている。
 ”天草の雅歌” は、一般にはさして知名度が高いとは言えない長崎を廻る海外貿易の興亡を、多彩な登場人物とともに描いている。主人公長崎奉行所の与力を中心に複雑な人間模様は最後までその帰趨が予想が付かず、それが一気に読ませる物語作者としての辻の筆力ともなっている。
 ”安土往還記” の信長のキリスト教布教者に対する一途な好意は事実はどうであったかの詮索はともかく、理解関係のない外部の存在にのみ心を開かざるを得なかった王者の孤独さと云うものを描いて感動的である。因習や伝統勢力への破壊と徹底性、宣教師たちに見せる子供のような無邪気さ、無防備さが哀れをそそる。その弧高さは最後のクライマックスに近づくに従い、辻邦生の作家としての信条告白と見まがうまででに混線する。
 辻邦生歴史小説は本人の風貌そのままに、曲がったことが嫌いで理性的に一直線なのだが、この小説においてもそれが歴史小説としての通俗性に流れるのはやむを得ないことなのかもしれない。それはキリシタン哀史という、歴史でありながら半ば伝説と化した埋もれかかった史実を氏が好んで題材に取り上げることでも分かるように、小説的な構想を展開しやすいと云えば云えるのかもしれない。それが史実との対峙の仕方が歴史小説としての重みをやや欠いているようにも思われたのである。