アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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シェイクスピアの ”ヘンリー五世”――史劇第二・四部作の最終篇 アリアドネ・アーカイブスより

 
   
 
  皇太子ハリーの、その後の栄華の後日譚である。物語もいたって単純で、対仏戦争の経緯と、失地回復までを描いている。しかもフランス王女との婚姻やフランス王室の皇位継承権までをも手に入れて、華やかさの内に幕、しかもそれが同時に ”リチャード二世” に始まる第二・四部作の終わりにもなっている。
 
 物語は華やかである一方、人物類型において前作や前々作のような複雑な陰影にとんだ歴史群像の彫琢はない。ない、と云うよりも、ここでは三部作の華やかな終わりを描く、長いエピローグのようなものであるから、必ずしも冷徹で複雑なシェイクスピアの洞察に満ちた複眼的な描写は必要なかったと理解すべきなのだろうか。
 
 シェイクスピアが描こうとした稀代の英雄像は、単に権威の頂点にあるものとしてだけではなく、下々の兵士の心に通じる人間通でもあった、と云うことだろうか。数の上では圧倒的に優位に立つフランス軍の陣容を前に、夜中に一人側近とは離れて陣営を彷徨い、個々の兵士たちの気持ち確かめる場面などに、”ヘンリー四世” 二部作で生き生きと描かれた放蕩皇子のその後の後日談が語られ、それがあたかも時に木霊する反響でもあるかのように、時の経過と云うものに感じ入らせるドラマ構成となっている。その語りの過程の中で、さり気なくフォールスタッフの死も語られ、図らずもひとつの時代の終焉をも描く、というわけだ。
 
 ヘンリー五世の人間通は、最終場面のキャサリン王女への求愛の場面においても生かされ、その政治性、権力性、戦略性を露骨に暗示しながら、純朴な心情に訴え、決して人間として下品とは感じられない。政治家としての個々の行為や生き様は上品とは云えぬものがあったにしても、いな、マキャべりストとしての冷徹さ、情け容赦ない姿勢、政治的品性のなさは顕著であったにしても、後半見せるヘンリーの見識と眼識の深さにおいて、教養の深さにおいて、時が齎した人としての成熟とともに、権力者の孤独で慄くような不安と、滲むような実存の心の痛みを伴う自己省擦によって、どこか古代の王者 の風格をを思わせるものが感じさせないではないのだ。
 
 フランス語と英語を交えてたどたどしく語られる、キャサリンへの求愛の場面がユーモラスで特に素晴らしい。王者としての自身がほとばしり出、それでいてあくまで人間としての謙譲さをも見失わせない、政治家としての完成度を、よきにせよそうでないにせよ、見せている。
 
 華麗で華やかな婚礼の式典で終わる祝祭劇は他愛ないものだが、この結構づくめの物語にして、読み終えるとある種の空しさが、哀歓ともペーソスとも云ってよいような、ちょうど祭りの終わりのような余韻の尾をひいて、本を閉じても閉じることあたわざる気持ちにさせる、不思議な演劇的空間の創成なのである。
 
 この寂しさは、あのフォールすスタッフと一連の悪党どもが既に淘汰され、この世にはいないということにもよっているのだろうか。外見の華やかさにもかかわらず、しみじみとした歴史絵巻である。
 
 
 
 追記:シェイクスピアのような歴史劇の作家を持つとは国民としてはどう云うことを意味するのだろうか。我が国の歴史物に感じられるあの大衆迎合的な無時間的類型性と著しい対照をなす。一人の人間の生き方を、同時に過去の類型において複眼的に捉え、それを流れゆく時間性の相貌の元に彫琢する人間観猿は、そのまま国民の民度の成熟度を意味するのであろうか。イギリス史においては、何事も新しくは始まらない。過去を引きずり他者との対他関係の元に、複合的に描かれ、それが一筋縄でいかないシェイクピアの観察眼をして、真の保守主義と云うものを保証しているのである。