アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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シェイクスピア 「シンべりン」 アリアドネ・アーカイブスより

 
 
 例によって物語はかなり複雑ですね。キリスト教渡来以前のイギリスが舞台です。当時イギリスのことをブリテンと読んでいました。シーザーの名前が登場人物の会話からたびたび聞かれますので、帝政ローマ期の時代と云うことになります。帝政ローマ初期のブリテンをめぐる抗争と、それを背景にした見失われた子供たちと父親の再会の物語、もう一つは貞淑な妻の貞操を賭けてみると云う伝統的な笑話文学の粗筋を組み込んだ、ある意味では奇想天外なお話です。話が絡まりに絡まり合って解決付かないほどの混乱の様相を見せると、最後にジュピターのお告げが下って、最後は目出度しめでたし、で終わります。・・・なんだ、と思われるかもしれませんね。
 
 このシェイクスピアの後期の戯曲で注目したのは二人の人物でした。一人は王女のイモージェンです。エリザベス朝時の初演では女性ですから、少年の俳優が演じたものだと思って想像してくださいね。美少年が演じていると思ってください。さて、この上もなく貞淑な妻イモージェンは、「オセロ」のデズデモーナのようにイアーゴーの姦計におちて絶体絶命の状況に追いやられます。違うのはピザーニオと云う忠実な召使の忠勤に恵まれたていたことです。一旦は死んだと思われ亡骸を葬られながら、最後はシェイクスピアの多くのヒロインのようにたび重なる苦難を乗り越えて栄冠を勝ち取ります。この万事が控え目で地味なヒロインが不思議に尾を曳くような印象を残すのは、運命を呪い不運を嘆きながらも自らの非力さに絶望することなく、一片の可能性があるならばその可能性までもは排除しない生き方の真摯さなのです。ターニングポイントが自分になくとも時をかけて時が経巡り運命の微笑みが再び自分自身の元に戻ってくるのを待つ辛抱強さです。この果敢さと可憐さが同居する、その相反する不思議な性を超越した中性的とでも言える魅力が、いかにも劇中では女性が変装して男性になり、舞台の外では女性を少年が演じざるを得ないというエリザベス朝の特殊な演劇事情を彷彿とさせ、それがこの上ない演劇的魅力をこの作品に与えていることに気づかされるのです。
 
 もう一人は、「オセロー」のイアーゴーに当たるヤーキモーと云うローマの遊びにんです。かれこそ亡命先のローマで追放され失意の底にあるポストュマスの唯一の誇り、妻であるイモージェンの貞操を賭けの対象として持ち出す張本人なのです。イアーゴーと違うのは、この人物はどこまでが不真面目でどこからが真面目なのか解らない曖昧さにあります。イモージェンを一目見るなりその美質を見抜いて内心かなり動揺するのです。しかし元々が百戦錬磨の遊び人ですから狩りの目的を忘れるようなことはありません。卑劣な手段を使っても所定の目的は果たします。つまりはっきり言って悪党なのですが、自らの天性を裏切られないところを矛盾として在るがままに描いているところが如何にもシェイクスピアだと云う気がするのですね。
 
 王様であるシンべりンは愚かではあるものの自らの非を潔く認めて最後は王者の風格を示します。この王者の内面を補足するものとして森の隠者ベレーリアスがいます。かってこの上なく王の忠実な股肱の臣でありながら讒言により森の中で隠れるようにして生きているのである。この設定は「真夏の夜の夢」や「テンペスト」に似ているから常套手段とも云える。さらに彼の口から驚くべき秘密が開かされる。彼に二人の息子がいるが、実はその二人こそ追放の腹いせに王の王子を拉致し去ったものだと云うのである。しかしその復讐の念もいまはこの上なる至高の父子愛へと変化している。この山野に逼塞する二人の息子たちが晴れて父王の前に名乗りを上げるまでの物語なのである。
 
 私がこのエピソードを読みながら感じたのは、父子の再会と云うドラマティックな筋立てよりも、拉致の張本人たるベレーリアスの、追放されたものの歴史観なのである。かれは何故悪徳は栄え美徳は滅びるのかと歴史上の問いを問うているからである。運命に負けることなく正当な問いを問うことにおける彼の果敢さ、それは人間として出過ぎた問いであるとしてジュピターの怒りをも招くものであった。しかし彼の命をかけた問いは最終的にはジュピターを動かしたのである。
 
 私はベレーリアスの弁明を聞きながら密かにシェイクスピアはここにあり、と思った。この喜劇の泣き笑い劇の背後にはシェイクスピアが生きた時代に至るイギリスの血なまぐさい血の抗争史があった。あるいは悪徳のみが栄え、正直者と善人はとことん利用されて捨て去られると云う、実際に彼の眼が見聞した史実があった。この現実を見る目こそ、冷徹である、あるいは老獪である、本音を見せない男とまで言われたシェイクスピアの素顔だっただと私は思いたい。この荒唐無稽な劇が奇想天外で運命は神と偶然頼みであると云うことが寿がれれば寿がれるほど、この物言わぬ仮面の裏に人間の仮面が隠れていなかったと誰が言えようか。
 
 シェイクスピア後期を代表する傑作の一つだと、私は思う。
 
追記:
 劇中にクロートンと云うかなり重要な役割を果たす現王妃の連れ子の王子がいます。現王妃の願いはこの連れ子の王子を王位に付けることです。ことが破れて王妃は狂死します。その息子を失った無念さゆえの嘆きが、悪逆の族とはいえ一抹の同情を感じさせるのです。元来イングランドの歴史劇に於いては王妃が重要な役割を果たします。エリザベス女王の母親であるアン・ブーリンなどが王の愛を失って処刑されるのですが、愛欲劇の顛末としてはあんまりだとは思うのですが、王妃の生き死には政治劇が絡んでいることが多いのです。それだけ歴史上に占める女性の影響力が我が国とは比較にならぬほど大きかったと云うことでしょうか。
 さて、クロートンのことを書き忘れたのですが、彼は王妃のただ一人の息子です。親の苦労も知らず物心ついた頃は彼は既に一国に君臨する唯一の王子でした。その我儘さが幾度となく語られます。しかし悪逆だと云う感じではないのです。やんちゃな子供の我儘としか映じないのです。その彼がひょんないざこざから首を落とされてしまうのです。悪党が滅んでやれやれと云う印象よりも歴史の無情さと云うものを感じてしまうのです。彼の活躍が華々しく、しかもドタバタ調であっただけに、彼を失った後のドラマの空白感が余計に目立つのです。
 実際の実像は、この母子の存在は悪逆の族と云うよりは、政治の犠牲者と考えた方が良いでしょう。シンべりン王はローマに勝利したにも関わらず融和と平和の方を選びます。理念的な違いは明瞭です。この母子は、イングランドの民族心の名誉のために死んだことは彼らの言動から読みとれうことなのです。シェイクスピアはそうした異化された解釈の余地を残す書き方をしているのです。