アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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オースティン、フロベール、そしてジェイムズ――政治的脈絡のなかに アリアドネ・アーカイブスより

 
 
 
 
 政治学をどのように定義するのか、と云う議論はそもそもあるのだろうか。古来古典古代のギリシアの哲学者、プラトンアリストテレスに大部の著作が伝えられてきたことからも関心を集めてきたのであろうことは分かる。またギリシアには美学と名付けられて伝えられてきた分野もあるが、ここでは二つの事、一番目は一般的に考えられる人間的行動の表現の学として、二番目は芸術がもたらす感動とか美しさとかは、人生がもたらす其れと如何に共通であり如何なるところで異なったものであるかの言及を含んでいたと思う。さて、このように考えると、古代ギリシア的な意味での政治学とは美学に隣接し、他方美学は一般性としては政治学倫理学を含んでいた、と考えることも可能かもしれない。要は、精密な語義の定義は他にゆずるとして問題提起のみしておきたい。
 
 さて、ヨーロッパにおける近代史においてフランス革命がエポックをなすことは御存じの通りだが、その後の経緯についてはそのあとに起きたロシア革命のイメージが余りに支配的であったがために、少なくとも我が国などの他の諸国においては、フランス革命後の経緯、王政復古と三度の共和制、二度の帝政が目まぐるしく交代する19世紀フランス史は、専門家や一部のマイナーな読書階級以外には関心を引くことは多くなかったようである。一般的にはナポレオンとその類縁者たちとパリコミューン(1871年)の伝説が知られてきた程度だろう。まあ、これはフランス革命をパリ祭として祝うような半ば無責任な日本の事情としては一般化はできないかもしれないが、少なくともわたしが生きた周辺の事情としてはそうだったろう。
 
 かかるフランス革命後の一世紀と云う次代を、ジェイン・オースティン(1875-1817)、ギュスターヴ・フロベール(1821‐1880)を経て、ヘンリー・ジェイムズ(1843-1916)と云う、国籍も個性も異なった小説家を通して観たらどうなるだろうか。
 ジェイン・オースティンは台所の片隅に隠れるようにして小型のノートに書きつけたと云う伝説が示すように、描く題材も南イングランドの素朴な中産階級と云うごく狭い田舎町の地理と階級を背景に、婚姻にまつわる愚にもつかない見識や噂話に翻弄される日常茶飯事を描いた作家として知られている。そして彼女が近年、その非政治的な姿勢も含めてセルバンティスに匹敵するような近代のアンチロマン、批判主義の偉大なる語り手であったことも及ばずながら評価されるに至っている。彼女の『分別と多感』から『高慢と偏見』を経て『説得』に至る歩みが象徴しているのは、とりわけフランス革命期の時代が生んだ誇大なもの、超越的なものに対する病的でもあれば感傷的な憧れを拒否することであった。彼女は敬虔なクリスチャンのふりをしていたけれども、近代以降の病的な願望が宗教に由来することを暗黙的な予感的な知として知らないわけがない。にもかかわらず多少皮肉が好きな、――皮肉と辛辣さはあくまで子女の良識の範囲であったが――彼女が教会を擁護したのは宗教と云う枠組みが除去された後に生じる暗黒について知っていたからに他ならない。フランス革命の時代に生を受け、一部その始終を見届けた永遠の少女が最終的に得た結論とは、夢のような理想を追う事は愚かしく、みだりに騒ぐことなく誤解を一つ一つただしていく粘り強い検証と実行の歩みであった。まるで近代の政治学の手本を見るような思いがする。
 
  ジェイン・オースティンの事例はフランス革命勃発時14歳、ナポレオン戦争による大陸戦争の終結時39歳の彼女が、まるで世界史の展開がなかったかのようにドーバーの向こうの出来事を無視した事実をどのように評価するのか、と云う点です。女だから視野が狭かったなどと侮ってはなるまい。ここまで無視が徹底すれば雄弁なる政治的主張である。
 
 1821年生まれのギュスターヴ・フロベールもまた近代のアンチロマン、批判主義の書『ボヴァリー夫人』によってセルバンティスの正系にあることを自覚的に宣言することからスタートしたことは知られている。彼が愛の陳腐さと政治の世界とを繋ぐ方法は独自であって、『感情教育』はその精華であるとされる。わたしたちは長らく見誤って来たけれども『感情教育』はヨーロッパ近代史の、そして人類の感情教育なのであった。そこでは永遠のロマン主義の課題、愛は不在である時憧れのなかに、予感の中に存在し、既在の脈絡の中では不在として現れ、過去形の思い出の中に再び存在する、つまり美化された愛とは俗物の時間に固有の現象であることを皮肉にも顕かにしたのである。
 この問題は、愛と認識において語る文体、あるいはより一般化された学問や普遍的知における無意識化された、先‐言語的なレベルにおける「である」や「であった」の文体によって従来知が基礎づけられてきたことも関係しているのかもしれない。つまり正しい認識は何時も対象成立の後に、「ポスト」として顕われてくると云うプルーストの嘆きである。つまり近代主義的な認識とは、常に近代的な認識論のパラダイムの中では死せるもの、つまり物象化と云う事態でしか現れえない、ということ。
 フロベールにおいては、永遠の凡庸人ギュスターヴ・モローと矮小な情事と政治は等価なのであった。偉大なるものと卑小なるものを同時に描くと云う手法は、やがてジェイムズ。ジョイスによって大々的に展開されることのなるのだろう。
 
 ギュスターヴ・フロベールの事例は、自伝史と世界史のエポックがたまたま重なったと云うよりも、時代証言者としてのフロベールの中に過ぎ行く人類史の黄金期への輝きとそれに対する哀惜と云うものがあり、ボヴァリズムの残響として、歴史と個人を繋く、近代市民社会史の叙事詩としての全体小説の構造が仄見えると云う事だと思う。全体小説とは何も、後のトルストイのように小説にパノマラミックな舞台装置を与えることだけを意味しない。いつの世にあり得る、才能も信念も見識も持たないごく普通の青年
永遠のノンポリギュスターヴ・モローを主人公に設定して、凡庸さと偉大さを刻印した点であろう。
 
 1842年生まれのヘンリー・ジェイムズによってわたしたちは何か新しい局面に逢着したと云う直観を持つ。ジェイムズにとって神秘とはもはやオカルティスムや猟奇的世界ではない。ごく普通の日常が日常であるがままに、まるでメヴィウスの輪を経めぐるように、理想を見失った人間の下品さと下劣さの中に、猜疑と懐疑の形で悪が生まれてくる経緯を、その神秘を描いている。彼はフランツ・カフカの先駆者なのである。ナチズムとホローコーストを予感のなかに描いたとされるカフカの予告者なのである。
 ジェイムズは長らく大西洋間の大陸を往復する、半ば高尚半ば時代離れした作家であると思われてきた。『アメリカ人』を書いたジェイムズは所謂アメリカ的なものとは似ても似つかないし、ヨーロッパ的な文化の厚みに傾倒した作家でも、むろんない。彼がヨーロッパの中に見たものはかえって罪業が完成された世界、崇高さとそれを上回るような下品さ下劣さが混在し横溢ぶりを見せる文明の野蛮、旧約的な世界なのである。ヨーロッパだけでなく 世界がソドムとゴモラ化したときどのような炎の硫黄の劫火を浴びることになるのかを、その不吉な予感の中で受け止めながら、偉大なる世界文学の作家ヘンリー・ジェイムズはその悲観的な世界観とともに1916年に世を去る。
 代表作『ある婦人の肖像』は『ある貴婦人の肖像』と訳されたこともある。この命名は内容としてもおかしいし日本語としても「貴婦人」はそぐわない感じだが、全篇を読んでみるとやはりここは「貴婦人」でなければならないと思う。つまり「貴婦人」とは、この世に存在しない稀人だと云う意味なのである。その稀人が、若いころから明晰さと聡明さを周囲に噂されながら、実際にやること、やったことは、凡そ合理的な計算の範疇の外にあると云うか、よそから観察者としてみれば愚かさの極みとも思えるのだが、しかし愚かで下品なのはこの世の方なのであって、凡そ考えることもできない「義理と人情」にかられて、最後は混乱を招くだけに終わるかもしれないこの世と云う、汚辱に満ちた世界に帰還すると云うお話である。つまり現代のドン・キホーテのお話なのである。「お話」だから信じない信用しないと云うのは読み手の勝手である。しかし仏教にもいうではないか、菩薩になる道と菩薩から帰る道と二つがあるように。特に苦渋に満ちているのは後者の道、還行であって、上は阿弥陀から六道の苦に至るまで様々な諸段階を生きるとは、そのものになりきることに他ならない。ミイラ取りがミイラにならないと誰が言えるのだろうか。しかし罪業と苦を自らに返り血のように浴びると云う現存在の在り方の中にしか、悪をうち砕く方法はないと云うのである。
 後期三部作の第一『大使たち』は、何の取り得もないと思い込んでいる老境に差し掛かるある勤め人が「大志」に目覚め、余生を「大使」として受け止める万人に捧げられた励ましの書である。これを『使者たち』と訳してはならない。第二『鳩の翼』は、ソドムとゴモラとかした現世の中で、無防備で非力な鳩と化した美と理想の消滅に加害者的にかかわるものたちの話である。美と理想は不在となることで「鳩の翼」が地上に落とす影は広がって地球全体を覆ってしまうほどの予感に満たされた恐ろしい書である。第三の『黄金の盃』は悪の正体、悪の見定めがたさ、悪と直面した時の理由のない孤独さを描く。この孤独さは部分的にはドストエフスキー的な孤独を凌駕する。孤立無援であり誰も信用できない、それでいて、もしかして一番信用できないのは自分かもしれないと云う懐疑がふとよぎる瞬間、にもかかわらずわたしたちは、自分の孤独を取り巻く感性を除いて悪夢と対決するほかはない絶対的に非力な世界、闇夜の中で暗く蝋燭が照らし出す足元の確実さだけを信じて兎も角もう少し歩いてみようと云う感覚、まさしくフランツ・カフカが描いた世界像なのである。
 悪の見定めがたさ、対象的世界の崩壊を描いてジェイムズ・ジョイスを、そしてプルーストを予感させる。人間としての偉大さにおいて両者を超える。