アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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森鷗外『澁江抽斎』 アリアドネ・アーカイブスより

森鷗外『澁江抽斎』

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 この書を読んだのは二十歳の頃だからほぼ半世紀近くも前のできごとである。この度、本郷を逍遥するに及んで時を隔てた鷗外の余香はいまいちど再読の動意が自身のなかに再現されていくのを意識する。
 読んでみると殆ど忘却をしている。話の筋は、澁江抽斎と云う幕末期の、医師、官吏、考証家にして儒学者、はんめん絵も画けば音曲もたしなんだ多面的教養人の、感情を排した記述的年代記であり、特色としては全体のほぼ半ばで主人公である抽斎が齢54歳で死去してしまう唐突さがある。小説は、抽斎没後以降も鷗外の筆勢いささかも変ずることのなく、以降半世紀にもおよんで明治末期に至る 日本近代史の動静を遠景として記すのである。鴎外が開発した固有の文体の与える効果は、あたかも時の無常を象徴するかのように抽斎没後の一族の、縁故知縁の情報を、知り得る限りでは資料を発掘し、それがかなわなければ伝聞、聞き語りによって、和漢混合文の雅趣を生かした公文書的な硬質の年代史的の文体で克明に印す、と云う「無味乾燥」ぶりである。はたしてこれは文学であろうか。読後の与える感銘からして文学であることは間違いないにしても、はたして近代小説の概念に納まり得るものなのであろうか、再読してまず一番に感じたのはそのことであった。
 
 関心の第二は、鷗外の叙述を読みながら抽斎その人に対する評価である。語るに価する人物で得あるのか、少なくとも近代小説の主人公として。鴎外が表面上語りうるのは、抽斎が鷗外に、性格、交友、趣味、において類似していたと云う以上のものは見当たらない。何となれば如何に生き方が似ているといっても、才能を嘱望され常に明治政府の中枢部に居直り続けた鷗外と、幕末から明治の動乱期の中で非力にも忘却の淘汰作用に抗う術もなく忘れ去られていく医師・学者・澁江抽斎とは余りにも違いすぎるのである。
 渋江抽斎とは、ようするに清貧のうちに死んだ人のことである。清貧と云い、ときに理念型の人間は自制にもかかわばず性向の不自然を顕すこともあるけれども、抽斎の場合にもそれを感ずる。若き日を放蕩者のように暮らす渋江優善の不行跡の数々にしても、儒者としての渋江家の言行一致の偏した情操教育の一端が原因ではなかったろうか。むろん江戸時代のことである。ましてや武家のことである。対面ともに己を律しなければ家を保つと云うことも容易ではなかったとは云えるであろう。しかし渋江家を支配する際立った観念性は鷗外が手放しで称賛するほどのものであったろうか。
 巨視的に観れば慶長年間より明治・大正までを視野に於いた長大にして雄大年代記の掉尾を飾るのは意外なことに、澁江家の娘、厚遇されたとは言えない陸の記述でもって鷗外はこの小説の末尾を語り終えている。兄弟姉妹が多い場合は両親の愛情が偏りがちなのはありうることだろう。幼くて里子に出され、里子に出されているうちに自活の道を学び、砂糖菓子商をへて杵屋の号を名取るまでの道のりは、澁江家の動静からいっても忘れられたる存在に過ぎなかった。要するに捨扶持なのである。その娘が晩年名取りとして大成して、家本宗家の後継ぎ騒動に巻き込まれ、意図せずして家元存続のために病を押してひと働きするくだりは、人間とは家族から恩恵を受けなくてもそれ自身の中に向日性のようなものがあって育つものだ、と云うことを語ってはいはしまいか。
 抽斎もまた己の愛情的偏向については自覚的であった。とりわけ養家から取り戻してのちは陸に愛情を集中したかのように書かれている、少なくとも鷗外はそのように書いている。あるいは抽斎は儒家・渋江家に遺伝子のように伝えられる優性遺伝子が個々の人間に及ぼす負の影響についても自覚的であって、いたみが分かる人間だったのである。森鴎外もまたいっけん冷酷に見えるけれども人の心の痛みのわかる人間だった。そうした人間が、封建制と家の優生的言説を無言の内に弁じてやまない儒家の個性を超えた伝統的慣習の間にあって、なお自己の弱点にも敏感であり、矯めし続けたというところに江戸の文人渋江抽斎の魅力を感じる。
 雄渾な叙事詩『澁江抽斎』が、本流からは距離を置かれた娘の生涯を最後にやや詳しく語って語り納めたことの意味もここにあろうと思う。
 
 渋江抽斎の魅力とは中庸に生きたものの魅力である。鴎外は抽斎を語るに、近代小説とはまさに正反対の手法、ひたすら受け身にの立場で聴すると云う姿勢を貫いた。そして資料が明らかにせぬもの、伝聞が伝え洩らしたものを推測によって補ったのである。これは自意識こをは文学なりと言外に主張し続けた日本近代文学のセオリーとは正反対のものである。森鴎外は晩年に至って近代文学に対して重大な異議申し立てをしたと考えてよい。さきにわたしは『澁江抽斎』は紛れもなく文学ではあるにしても果たして近代小説であろうかという疑問を呈しておいたが、本作は方法意識において近代小説の理念を踏まえその反措定として成立しているのであるから、近代小説のひとつの達成した形と答えてよいのである。これが感じたことの第三である。
 
 感じたことの第四は、澁江抽斎の虚しさである。儒家として医師として官吏として生きた。抽斎はその何れをもってしても報われなかった。特に維新後は抽斎が属した弘前藩は官軍側に加担したにもかかわらず、こと渋江家については医師のゆえをもって減封の処置に会い、いったん命じられた郷里では生活が難くなって再度上京をするはめになっているのをみれば。つまり渋江家は御一新を境に零落するのである。
 小説を起稿した鷗外の念頭にあったのは渋江氏のような生き方をしたものがこのまま忘れ去られて良いのであろうかと云う慨嘆であった。抽斎のみではない、かれを囲んで生きた家族、縁故知縁、知人友人、親戚の類いに至るまで、これだけ膨大に生きた江戸人の生き様が歴史から忘れ去られようとしている、そういうことが許されて良いのであろうか慷慨意識であった。
 ここに『澁江抽斎』が抽斎個人のみではなく、同時に数百人位及ぶ膨大な幕末期の人間群像の跡を留めんものと雄渾にも記述された由縁がある。
 
 感じたことの第五は、武士と町人の垣根は意外と低かったな、と云う意外な印象である。少なくとも『澁江抽斎』には偉ぶった人間、権威主義的な人間は登場しない。登場する場合は抽斎なり副主人公格・五百(いお)なりの批評を受ける。支配階級である武士は己を低く持してこそ秩序を保ち得ると云うイデオロギーが徹底していたかのごとくである。少なくとも武家儒家であると云う意味はそういう意味であった。少なくともこの小説が書かれた時期よりも顕著になっていく、武家的精神は国体の前に命を粗末にしなければならないと云うイデオロギーとは結びつかなかった。
 わたしは『澁江抽斎』を読みながら、抽斎とその時代が、士農工商と云う大きな枠組みのなかではあれ、前近代型の平民主義と云うものが一応の確立を見ていたのを確認できた。歴史の怖ろしさは有意でもあれば価値が無いとは言えなかった無辜の民の事跡を考古学的な地層に埋没させてしまうのである。
 
 第六は、鷗外は個性を如何に考えたのだろうか。個性を考えるとは、時代や社会の中にあってひたすら受け身であることを強いられた女性の立場から問題を提起すること、その重要性を鷗外は理解していた。
 ここに抽斎が妻・五百の魅力的な人物である由縁がある。夫を救うために湯屋から腰巻一つを身に着けて懐剣を口にくわえて単身夫の窮状を救わんがために駆けつける、お能巴御前のエロティスムを思わせる光彩陸離、その果敢にして清冽純情の颯爽とした姿はまるで歴史絵巻である。しかし事終わりてのちは事件に言及するごとにひたすら恥じ入ったと云う。なぜ男に生まれなかったかと讃嘆されたこともある丈夫にして、その没後、抽斎との婚姻の秘密を明かされるのだが、なんと婚姻の儀は五百の方から人を頼んで水面下で秘かに進められたと云うのである。鴎外の記述は例によって、あととりの不行跡により五百に入り婿をとらされそうになったので苦肉の策として家を出る手段を考えた。次に権威ある渋江家のものになることでその学問の家としての裁量的立場を利用して、よく実家を監督しうると云う戦略的主旨が仲人に説明されたそうであるが、たぶん嘘だろうと思う。つまり灰色に色あせたモノクロームの江戸期の人間群像と、儒仏的イデオロギーの階級ヒエラルキーの背景の中から、個人の恋愛と云う感情が生まれかけていたのである。恋愛感情と云う行為の形式を通じて近代的な個性が生まれかかっているのである。ここで特に、近代的な恋愛とことわる理由は、これまでの日本人の伝統社会では忍ぶ恋こそ至高のものであると、あるいは考えられてきたからだ。近代的な愛とは、愛と云う行為の中に自らの意思を貫徹させ、意思は愛を自らの身にまとうことによって、言語で表現する限りにおいての愛であると達観する立場である。アガペーやエロースも含めた多様な愛の形式の中で、近代的な愛の特質を拮抗的に語ることは、何よりもまず己の言語観を語ることほかならないのである。
 鷗外の史伝『澁江抽斎』は、抽斎を円弧の中心とした何百と云う江戸末期の一様に灰色にくすんだ人間群像を描くに、最後にあたかも画竜点睛を画した画家の乾坤一擲の気迫のように、人間が人間であることの所以を生きた一人の夫人を、一個の個性を書きとどめて近代小説であることの正しき由来を語っているのである。
 
 最後に語りたいのは次の事である。鷗外が最も哀惜を籠めて描いたヒロイン五百にしても、歴史の自然、レアリズムの冷徹は免れることはできなかった。『澁江抽斎』の後半部に於いて、五百の最後が語られる。五百にして老齢の過酷は例外を許さないかの如くに訪れる。勉学を理由に家を出た息子の帰りを待ちわびて食物を受け付けなくなってしまう。そんな暑さが厳しくなりつつある或る日、見舞いに帰宅した息子は仕方なくて母の手前で氷を飲んで見せる。生卵を食べて見せる。そして徐々に水準を挙げながら五百が抽斎在世中すこしはたしなんだと云うお酒を一口飲んで見せる。そううして最後は風呂と、湖月の夕涼みに連れだしてしまう。まさに『山椒大夫』を思わせる母子の神話的な場面である。そしてその母の最期はつぎの如くであった、机に向かって勉学に勤しむ息子の後姿をみまもりながら、励ますように会話を折り重ね手繰り重ね、さながら火鉢の縁を両手で支えるように力尽きて死んでいく。死者の目になりつつあつものの眼にはもどかしいほど、残していく生者の後姿は引き戻すすべもなく小さく遠ざかりつつあったに違いない。わたしは鷗外の眼は潤んでいただろうと思う。