アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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戦争は女の顔をしていない』――本年のノーベル文学賞受賞作家アレクシェーヴィチをわたしも読んでみ アリアドネ・アーカイブスより

 
 
 スヴェトラーナ・アレクシェーヴィチの『戦争は女の顔をしていない』は、第二次大戦の主として対独戦線に従事した女性戦士(狙撃兵、戦車兵、高射砲砲手、歩兵、衛生兵、通信兵、斥候、)、工兵、兵站に関わるもの、医師、看護師、そしてパルチザンに参加した女たち、抵抗運動に協力した子供を含む家族と女たちの聴き語りである。その総数、千名近くにも及ぶだろうか、実際には割愛された部分もあろうから、インタビューの実数は数千名に及んだとも思われる。膨大な根気の成果ともいえようが、ひとつ一つの聴き語りが、気も滅入るような語り手の現時点での実存の問題を問うようなやり取りであったという意味で、聞き手のパーソナリティそのものが問われるような事件!と云ってもよいようなものだった。
 問うもの自身が問われる、この不思議な構造は、読むもの自身が問いそして問われるという、不思議な循環構造をノーベル賞受賞作家のこの書に齎している。
 
 今日、私たちがこの書を手に取って感じる疑問は、戦後七十年も経って、ようやくこの書のような体裁の本が出版され始めノーベル賞受賞の栄誉にあずかった点だろう。出版は、実際にはいまから二十年ほど前であるから、この段階で戦後五十年、従軍した女性たちは十五歳から三十歳の前半、聴き語りを採るにはぎりぎりの段階だっただろう。その頃の日本はどうだったかというと、バブルがはじけて戦争ははるか昔の神話的な出来事のように忘却されて久しい時間が経過していた。
 
 いつの世もそうであるが、時代は聴き語り手を欲する。古来から、特に文書を持たない時代においては、女性の記憶力が尊重されたといわれるが、スヴェトラーナは実に絶妙の時期に行動を開始したことになる。本国のベラルーシでいまだに出版が許されないという事情は、戦後の日本の文学と対比参照するために憶えておいてもよいことだろう。
 
 わたしがこの本を読み始めて感じた疑問は二つあった。
 一つは、なにゆえかくも多数の、数百万規模の若き女性たちが戦地を志願するように、駆り立てられていったのか、という疑問である。こうした前線と銃後の混在は、国土の大部分が戦場となった西側の諸国でも――レジスタンスという例外は別として――類例を見ないものであるし、我が国では、わずかに沖縄の人々の理解力が届くかもしれない、それほど、わたしたちの戦争観とは異なった、異質の現実が描かれている。
 当てずっぽうの想像を言うなら、それほど緒戦期におけるスターリンソヴィエト軍の戦略上の稚拙さが絶対的な戦力不足という事態を来たらせ、うら若き女性たちを戦場へと駆り立てた、ということだろう。少なくともこの書を読む限りにおいて、厭厭ながらの徴兵という事態は描かれていない。祖国防衛戦争という壮大な夢の中に、あらゆる困難を排して、万感の思いを込めて従軍を志願する乙女たちの群像が描かれているばかりなのである。
 19世紀以降の国民国家の戦闘においては女性の活躍が無視しえないことをすでに、西側諸国の事情などを通じて理解していたので、わたしはうかうかと、女性と民主主義との関係を牧歌的に想像していた。というのも、英国などでは女性の参政権が認められたのもそんなに古いことではなく、第二次大戦時の種々の女性の活躍に対する恩賞的な行為としてあったという、醒めた認識をかって読んだことがあって記憶に留めていたからであった。それでわたしは迂闊にも、共産主義政権下のソビエトで戦後女性にどのような立場が与えられたかと、楽しみに読んだのである。
 人間、幾つになっても先入観とは恐ろしいもので、そこに描かれていたのは全くの逆立ちの現実、生死の世界を掻い潜った女たちに対して、平和の観点からする侮蔑、戦時ともに闘ったはずの男性的世界観からの裏切り行為だったのである。――端的に言えば、戦後の男性は、嫁にするなら軍服ではなく、スカートが似合う女性がよいといったのである。
 こうして戦後、共産主義化のソビエトで、数百万ともいわれる、従軍女性兵士、看護師その他の専門職婦人たちの「独身化?」という事態が、時代に取り残されて存在したのである。彼女たちは戦後ひそかに、従軍証や軍事勲章を秘かに裂いたり箪笥の奥に隠匿したという。人前では自らの戦時の記憶を語るのを避けたという。戦時中、男の兵士たちに立ち混じって戦闘行為や威容行為に参加していたというだけで、そこにフリーセックスのようなあらぬ世界を想像され、あろうことか愛国の志は女の自堕落さを無責任にも想像させたというのである。
 確かに、この疑問は本書を読んでもなお闇の部分といってよく、男女が混在した、死生をともにした運命共同体のような男女の性欲がどのように処理されたかは、穿ちすぎかもしれないが語られてはいないのである。この書をもってしても語られない世界があることに対する作者の配慮があることは、聞き手の世界観は語らずに、ひたすら受け身な告解師として、聴かれたままを、語ったとおりに文章化したスヴェトラーナの手法に明らかである。
 ただ一つ戦時下のソビエトの人民軍に同情して書くならば、生死を共にした運命共同体的な世界で男女が性差を超えて混在した有様について何を言おうと、何を想像し妄想しようと、平和な時代からみる我々の視線には異なった価値観を先入見として持ち込まざるを得ないということだろう。戦後になって、彼女たちの行動を奇異の目で見下し、道徳的に指弾した女たち、そうした見方が戦後の世界の中で流布していくのを、彼女たちをかばうのではなく、積極的に裏切って平和の使徒となって堕落していく品性については無自覚だった男たちの世界にわたしたちが似ていないと誰がいえようか。
 わたしたちはこういう書物を読む場合は、幾重にも自らの先入見、想像力の限界について自覚的であらねばなるまい。それが少なくとも夥しい死者たちと困難な状況下で生き延びた者たちに対する敬意というものであろう。
 
 戦争は女の顔をしていない、戦時にあっては男のように生き、同時に、男のように見なされながら女のような優しさを示した彼女たちにとって、戦場は過酷な生存の場であった。
 戦争は、彼女たちにとって戦後も終わることなく、今度は、目に見えぬ社会的偏見というものと、あるいは目に見える形での露骨な差別や政権による制裁的行為として現象する。彼女たちにとって、戦前戦中を通して終わりというものはなかったのである。
 戦時はナチスと闘い、戦後は共産主義下の現実と自らは意識することなく闘った彼女たちの意思が、祖国防衛戦争と平和という美しいイデオロギーにかき消されて、真の敵が誰であったかを最後まで認識しえないという点がもどかしいほどにも哀れである。
 
 最後に本の紹介もかねて、エピソードを幾つか。印象的な場面は数々あるけれど、次のお話し、――
 あるパルチザンの女性は拷問の果てに、連行される道端で子供たちを一人ひとり殺されていく。最後に残された胸に抱いている乳飲み子を、空高く放り上げるように指示されて自らの意思で地面に叩きつける。ゲシュタボの士官が落下してくる乳飲み子を串刺しにすることが分かっていたからである。
 ナチスのゲシュタボは、あるとき路傍のボロ小屋の前に乳をやっている若い母親を目にする。士気高揚のため彼としては誰かが制裁的な行為を示威するのを期待したのだが応ずるものがないので、一番過激な行為を自らが示して見せなければならない。それで彼は用水槽のコンクリート壁に、乳飲み子を脳みそが飛び散るように叩きつけてみせる。
 最後のお話は、連行されていくパルチザン協力者の母親を道端で子供が見つけて追いすがる。母親の袖に必死に縋り付いて転びつつ脚萎えながら別れを惜しむのだが、激しく動く人を見たら飛びかかるように訓練されたはずの軍用犬たちが、敵味方の誰しもの想像力を裏切って沈黙したままであったというお話。