アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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二人の戦後、原節子と白洲正子 アリアドネ・アーカイブスより

 
 
 先日、NHKのクローズアップ現代では原節子の追悼番組を企画した。原節子の思い出を様々な人が語った。風のような人!とは、原節子の甥にあたるひとの語った言葉である。彼女の散り際が、そういえば、いかにも風の余韻ような風情を感じさせる。
 末延芳晴と云う映画評論家は、尾道での最終場面、原節子が義理の父親を演じた笠置衆の前で号泣する場面を取り上げて、映画を越えた表現であったと評価する。実を言うとこの場面での原案は、単に、顔を覆い、涙をのみこむこと、とだけあったと云う。末延氏は、演出を越えた原の演技を、戦禍の記憶が次第に薄らいでいく中で、忘れ去られていく人々への挨拶であった、と解釈している。
 同じく映画監督の周防正行は、この場面の原の映画のなかでの発言――「わたくし、ずるいんです」を取り上げて、このことによって日本人は救われたのだとも云う。つまり、ずるい気持ちを心の片隅に抱いて生きていた戦後の日本人の心にひとつの慰謝を与えたのだとも。これはより深い解釈である。
 わたくしはこの場面を取り上げて、戦前は軍国主義のミューズとして戦士たちを戦地に駆り出し、戦後は一転して『青い山脈』などによって、なんの屈託もなく戦後民主主義を寿いで、平和の女神となって復活した自分の生き方に、ずるい!を重ねてみたのだと思っている。何事も必要以上に美化してはなるまい。
 何事もエポックメーキングとは二度ほど相似形において繰り返されることが歴史においても生涯においても多いものだが、よほどの愚か者でなければ何度も繰り返すと云うことにひとは堪え得ない。三度目に彼女が選んだのは小津映画の女神に殉じることであった。ころは60年代の終わりのころのことである。――
 次第に風化しつつある戦後の風潮に、彼女が二番目に選んだのは民主主義の理念に殉じる気風も籠められてあったのかもしれない。オリンピックと万博以降の世の中の軽薄な風潮に役者としては手を貸すまいとする自由意志のごときものがあったのかもしれない。彼女も、最後は自分の自由意志を選んで生きたのである。自分自身の意思を持つこと、当たり前のことだと云われるかもしれないが、この国で生きることのなかでは当たり前なことが、なかなかに卓越したことのように感じられてくる不思議さというものがこの国の風土にはある。――これが原節子の場合である。
 
 去年の年末、ある女優の遠すぎる死を通りすがりのことのように聴き捨てて、歳が明けてどうにか、これもついでに、通りすがりのように町田市鶴川の白洲正子旧邸を訪れた。
 白洲正子の場合は、戦後の民主主義の前にお辞儀などして見せなかった。むしろ毅然として日本人の矜持を示すことにおいて、彼女は自信を喪失した日本人にある種の慰謝を与えてるようにも見えた、のちの川畑康成がもっと大がかりな意味で演出したように。美しい日本の私、とは、彼女のことだったように思われる。
 わたくしは旅行中一冊の小さな本を携えていて、理由は手荷物の邪魔にならないからと云う理由だけであった。本の名前を『美しくなるにつれて 若くなる』と云う。若くなるほど、あるいは若く見えるほど美しくなる、と云うならわかるのだが、逆の意味になっている。その理由はいまは問うまい。そのことと在京のある日、思いついたように鶴川を訪ねたのがある種の脈絡で繋がっていたのかどうかは分からない。
 同書は、お説教臭いところが多く、わたくしには退屈だった。何人にもなることを拒否して、永遠の執行未了猶予期間であることを自覚して、永遠の素人たるを演じた白洲氏の生き方にはいまだに敬意を払っている。所作的な刹那に一期を掛けた生き方は、飛ぶ鳥跡を濁さずの喩え通り、清冽な思い出だけを彼女が立ち去ったあとの戦後の時間軸に、主亡き跡の柴焚く煙のように揺曳させていていて、まるで彼女が語った古人(いにしえびと)のようでもあり、現在か過去か分からなくさせる。その美しき生の奇跡の抜け殻が、たとえば武相荘、と云うことになるのだろう。
 この小さなエッセー集では、表題を意味する随筆群よりも後半の鶴川日記と称する部分の方がわたくしには面白かった。このなかでゲーテの言を引いて、「我々の手本になる人間は、別に教育を受けた人たちとは限らない」と書いて、「長さんのおばさん」と云う言い方で、ある鶴川在のやくざの娘だったお婆さんの死を描いている。
 やくざの娘だと云うのでいろいろ人には言えない苦労もあったのだろうと白洲は思い遣って書いている。「ある年の盆に、家族が門前に集まって、迎え火を焚いていた。『婆さんもこっちへ来なよ』『あいよ、今すぐ行く』といったきり、いつまでだっても現れない。長さんが見に行くと、立て膝をしたままの姿で死んでいた。」
 わたくしは思うのだが、白洲がどのような死に方をしたのかは知らない。平忠盛頼政の修羅のなりで、能装束のまま立膝で死んでいたら絵になっただろう。