アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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自然科学的要素主義とはなにか? 個人と私人、その時間的論的構造 アリアドネ・アーカイブスより

 
 
 森友学園事件で面白く感じたのは、話題となった園児が”教育勅語”と”五箇条の御誓文”を一緒くたに唱和する場面があったことですね。当事者もメディアも復古主義――と考えられるもの、には気が付いても、両者の異同については殆ど話題になりませんでしたね。
 
 第一条 広く会議を興し、万機公論に決すべし。
 
 これなどもあまり難しく考えることなく、日本人が漠然と抱いてきた「天」の道理という考え方に近く、権力や利害関係を超えた、公論のようなものがこれからの時代をリードしていくのだな、と考えても不思議はないでしょう。この時代は、徳川慶喜大政奉還をした直後の出来事で、国政や国体などと云う難しいことを言う時代ではありませんでした。要は、この段階に置いて、日本には民主主義が育つ土壌のようなものは既に在った、と云うことだと思います。
 それが、勅語になると事情が異なってきます。
 
”汝臣民は、父母に孝行をつくし、兄弟姉妹仲よくし、夫婦互に睦び合い、朋友互に信義を以って交わり、へりくだって・・・云々(以下略)”
 
 いつの世も親に孝行を尽くして悪いわけがありませんね。それで勅語も後段にこのように書くのです。
 
”この道は古今を貫ぬいて永久に間違いがなく、又我が国はもとより外国でとり用いても正しい道である。”
 
 言辞としては、いつの世にも変わらぬ正しき道、正しき考え方、それが”汝と我”という全体の構文のなかで意味が異なってくると云う当たり前のことに誰もが言及しないのですね。
 かかる、古今の正しき道が、等しい”我と汝”の構文で語られる場合と、”朕と臣民”との脈絡の中で語られるのとでは意味が違ったものになりうるのです。
 某首相とそれを支える官庁官邸の言語感覚は、自然科学的要素主義とでも云えるもので、言葉や言語をその要素自体で取り出して、全体の構文や脈絡を外して読む、実験室で言葉を解剖するような「客観主義的な」読み方です。つまり山や樹と云う単語があれば、如何なる場合、いかなる場所においても、自然科学的な客観性に照らして同一意味を有する、という偏狭さを譲らない立場です。
 某首相とその背後に控える官庁官邸の自然科学的要素主義とでも云える言語感覚は沖縄の辺野古基地移転問題に於いても能力が発揮されて、仲井眞知事の落選と翁長知事の誕生によって、地方行政府の権限下でなわれた移設中止の判断に対して、政府・官邸が持ち出した”行政不服審査法”などの適用の仕方を見ても、その恣意性に関する限り、これで法治国家と云えるのかという代物でした。
 行政不服審査法とは、個人の抵抗権に関わる法令ではなかったでしょうか。つまり自由平等を建前とする民主主義国家においても、明らかに権力的な力関係の不平等はあるわけであって、弱者の権利を保護するために定めれた法律であったと思います。それが逆転して、国(強者)が、地方行政府である沖縄県(弱者)に対して適用すると云う、本末転倒の事態がなんの不自然なこととも感じられずにまかり通っていくのです。政府の自前の言い方を借用すれば、「粛々と」まかり通っていくのです。
 つまり言葉や言辞を全体の構文や脈絡から外して、それ自体を要素主義的に解釈する、あるいは、法令を法が定められた主旨を考慮の外に置いて、字面だけの解釈に拘泥する、こうした某首相の言語感性を、わたくしは自然科学的要素主義と名付けたいのです。
 
 自然科学的な要素主義には実験室的な厳密さ?で語義を解釈しますから、歴史性や時間性などと云う形而上学的な感性はない方が良いのです。字引を引くように、眼に見える単語や言辞だけが、見当たる、眼に入る、という議論の仕方です。
 先に、わたくしが文章を構成する構文の構造や脈絡と云うものに言及したものを、一個の生きるものとしての実存的感性の問題として捉えると、それが歴史性の喪失、時間性の無時間化、の感覚となります。某首相の憲法解釈における読解能力には、明らかに歴史性の喪失と時間性の初期化、が感じられます。歴史がここまでに至った経緯を考慮せず、フラッシュバックのように、教育勅語靖国参拝、安物の愛国主義が「飛び出してくる」思惟の構造は、彼の意識の流れが不可避に持つ、非歴史性、無時間性の構造と無関係ではないと思います。某首相の粗雑な頭の中の構造を想像すると、利害や権力構造の力関係のイベントだけが展示場のように配列されていて、時間性の構造がないようです。歴史を語るもの、特に復古的に語るもの、彼は歴史をよく知るものではないのです。
 先般から、「公人と私人」の関係について、某首相の発言を絡めながら論じてまいりました。この「私人」と云うものが時間を持たない存在なのです。個性や固有性を欠いた超時間的な存在なのです。他方、「公人と個人」の関係について言えば、個人とは実体概念ではなく、関係性のなかで、日々の努力営為のなかで不断に保全せられていかなければならない時間的な存在なのです。
 それで憲法第12条にも、国民の不断に続く永遠的な営為としてこのように書かれているのです。
 
憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。”
 
 つまり日本国憲法で規定する国民とは、時間的な存在である、と云っているのです。
 
 
(付記)
 憲法に云う国民とは、継続する意思主体としての法的”我々”であり、この中には象徴天皇制の於ける天皇個人も含まれ得る。違いは、時間性を考慮して考えられた場合の実存的な在り方であって、人間宣言を成した象徴天皇は普遍としての国民を志向しながらもなお、現状では国民になりきれているわけではない。彼が国民に至る長い道程は日本に民主主義が根付く課題と同時並行的な関係にある。
 他方、大多数の国民は法的には普遍の法的主体であることを保証されながらも、実定性な在り方としては道半ばにして道的旅程的過程の理想は程遠く、国民が国民になると云う人類の前史に関わるドラマはいまなお「不断の努力」の過程の途上にある。つまり人としての国民は、法治国家の国民として人間になると云う無限の過程であり、この過程が同時に天皇個人にとっては、象徴天皇と云う過渡的な段階を経て、天皇が人間に還ると云う、一方では人が人間になる過程であり同時に天皇が人としての人間に還ると云う、双方向の動的かつ弁証法的な関係と考えられる。
 憲法に規定する国民とその一人一人は、法的規定としては無時間的なあるいは超時間的な「私人」ではなく、時間的存在としての「個人」であると考える。