アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

アリアドネ会修道院附属図書館・アネックス一号館 本館はこちら→ https://ameblo.jp/03200516-0813  検索はhttps://www.yahoo.co.jp/が良好です。

わたくしは日本国憲法をこのように読みましたよ アリアドネ・アーカイブスより

 
 
第一部 日本国憲法について
1、諸国民とは何か?
 「 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」
「 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」(強調体筆者。以上、前文)
 一国の憲法であるにしては、少々異様に響く言葉、それが「諸国民」です。簡単に言えば、国民国家の概念を超えることだと思います。しかし実際には、現下の国際社会の環境下の現象形態においては個別の国家は、国際会議等の場面において半ばは国民国家の様式としてあるほかはないわけであって、理念と、その時その場所に限定される政治・経済的等の判断においては、その時々の、様々な限定的、戦略的な立場があり得る、と云うことになるのだと思います。ただその場合でも、
「  第九十七条    この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」(強調体、筆者)
 と、あるように、日本国憲法が公布されるに至った人類史の経緯をみよ!と、ある。分かりやすく言えば、カントの『永世平和論』や『啓蒙とはなにか』にある、公的とは如何なるものかを参照せよ!と云っているわけである。
 であるから、前文の「これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」は、九十八条と響きあっている。
 九十八、九十九条には、どう云うものが違憲行為にあたるかが書かれている。
 
「  第九十八条    この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。 」
 
「  第九十九条    天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」
 
2.幸せになる権利
「  第十三条    すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
 
  第十四条    すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。 」(強調体、筆者)
 人間だれしも理想や人生の目標はある、と云うだろう。ここではそういうことを言っているのではなく、人生は多様であり様々な障害や挫折を経験する、そういう時ですら自らを反省的に捉え返し、自分自身に還ること、自分が自分自身である所以を誰に遠慮することもなく自問自答しえること、かかる思惟の自由度のことを言っていると思われる。
 幸せになると云うのは、自らの実存を時間性として捉える、という意味である。個人と云う概念の成立である。他方、目標をみ失った現状の在り方を固定的に考えたり、単に目的と手段の関数としてしか生の体験を捕えることのできない思考構造を持った人を、私人、と云う。
 日本国憲法は、幸福追求の権利を持っている憲法であることを特色の一つとしている。而して、幸福追求の権利を保証するものこそ、個人と云う時間性を持った概念なのである。
 
 憲法本文が前提としている国民や諸国民の性格規定として、個人と云う概念があるならば、先に個人とは時間性を持った概念であると規定したわけであるから、象徴天皇とは、個人としては時間性を持った存在である、と云うことになる。
 ここに、国民に随伴する伴走者としての、天皇、と云う考え方が成立する。つまり法的理想と現実的諸段階に対応した様々の国民主権の在り方のなかにあって、理想と現実との間を埋める、中継的な存在として象徴天皇制を捕えようとする在り方である。こうした在り方は何も特別なものではなくて、創成期の立憲君主制などではおなじみになった考え方のひとつで、どちらかと云えば古い考え方を踏襲したものの方に属する。
 
4、戦争の放棄の思想と象徴天皇制
 これも一国の憲法としては特別な表現となっている。
 戦後の日本国憲法平和憲法であることを特色づける規定は、国民国家の歴史には見ない、固有な、九条の規定である。
「  第九条    日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 ○2  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」
 政府や行政が明らかに憲法に違反した行為をとるときには、先述の九十八条、九十九条の規定と突き合わせて考えよ!とある。
 国民の判断もまた間違うこともあるし、とりわけ大衆の多数決が国を誤らしかねない方向に向かうこともある。それを抑止する機構としては、第一に三権分立と云う法の考え方があるし、諸国民と云う考え方があるし、加えて諸外国にはない特異な考え方としての、象徴天皇制の考え方がある、と言うべきだろう。日本国憲法の最大の特色は平和憲法であると云うことと、憲法に内在する行為としての象徴天皇制の思想を持っていることだろう。
 つまり国民が誤った方向に誘導される可能性がある場合においては、天皇陛下は、
「 憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」(第四条)としながらも、
 国政や国事行為を超えた形での、象徴的行為によって象徴的存在として象徴的な形で抵抗することを試みることができるし、また戦後七十年に渡って国民とともに憲法の同伴者として歩んできた歴史的経緯によってその義務が象徴天皇には本来的に有する、と云う考え方である。もちろんこの場合の国民とは、現にある既成性としての日本国民のことではなく、先駆的可能態としての公民としての国民ならびに諸国民のことである。個人、公民、諸国民を包含したものとしての先見性としての日本国民、そして象徴天皇と云う考え方には、時間性と云う基軸が貫いてある。
 
5、「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」(第十章”最高法規”・第九十七条)とは何か?
 日本国憲法が、国民が、国民を構成する個人が、時間性を持った国民であると云う意味である。その時間性と云う考え方が、象徴天皇制と云う考え方に現れていると思う。一人格たる自分自身を個人と読み替えたときに出現する時の概念が時間性、個人を普遍化する方向に公人、公民と読み替えた場合に登場する時の概念が歴史性である。個人は時間的存在、公民は歴史的存在である。
 「 多年にわたる・・・・努力の結果」とは、戦後の日本国憲法が他の諸国のよくある民主憲法のように、自由、平等、友愛の権利が、天賦のものとして先天的に与えられているわけではない、ことを意味している。それは日本国憲法の現在を保全しようとする、日本の国民の不断の「努力」、諸国民と強調する日本国民の、普段の営為の結果でなければならない。
 
 
第二部 日本国憲法を文学書として読んでみよう!
6、戦後日本国憲法の歴史的記憶
 日本国憲法については、ジャーナリスティックな意味では六十年代以降の江藤淳などによる、戦後占領下の進駐軍によって押し付けられた非愛国主義的な憲法であると云う見解がある。実際にこうした反対意見を許容した背景には、憲法の、従来までにはない、和文脈とは異質の文体にも感じられる。それは考えようによっては戦後日本人が生み出した一個の名文であって、邪な心を許さない毅然とした文体は、革命期のヨーロッパが自らの人類史的意思を確認した啓蒙主義期の文体に近い。
 他方、日本史においては古きを訪ねれば、非戦の太子的理想に殉じた山背大兄王があり、皇親政治の理想に死んだ長屋王一族の歴史もある。日本国憲法が日本由来のものではないと云う国粋的な反対意見を言われながらも他方においては往古の日本的理想の形を継承したものの形とも云える性質を持っている。近くを訪ねれば、黎明期明治の五箇条の御誓文などとの文体的一致をも感ずることもできる。憲法想起にあたって御誓文との連なる連想の一致については、昭和天皇の思いもあったようには伝えられている。その時の昭和天皇は現実では戦犯の責任を問われながらも、既に先取りされた象徴天皇の姿であった。想像力が豊かなひとだったと思われる。
 
7、双曲線の時間構造をもつ日本国憲法
 日本国憲法に規定する国民ならびに諸国民とは実際の既成性としての民族国家に於ける大衆等ではなく、先見的可能態としての理念的存在であった。つまり国民は自らを省みる行為をとおして、国民は国民となる。
 他方、象徴天皇は自らを過渡的、自己否定的媒体として考える場合は、自己を無限に無化する方向での行為と云える。つまり国民が国民になる歴史と、象徴天皇が自己否定的行為として国民になると云う歴史は同時的であり、両者が時間軸のなかに描く人類の普遍史としての文様は双曲線的形状を有すると考えられるのである。つまり二つの相反する双曲線が絶えず交わりあい合う交点がこそ、永遠の相の元に於ける現在があると考えるべきである。
 一方は自己を無限化する意思であり、他方は自己を自己否定的に無化する行為であると云える。
 
 改憲論者が、改憲論者でしかない指標をはかる良きリトマス試験紙があります。個人と私人の違いを彼に聴いてみてください。違いが彼の立場からは見えていないはずです。同様に、公人についてもお尋ねください。彼らが考える公人とは、村落社会や行政機構、あるいは企業社会にある同心円的な構造のなかに描かれた、任意の点に過ぎないことが明らかになるでしょう。人の個性や意見の違いを超えた言説の独自性と云う観点がなければ公民や公共性と云う概念は理解できません。公の公論や公民と云う概念の理解が出来ないから、公人と私人などと云う軽々しい言葉の言い換えが某首相の「私人的」言説のレベルにおいては可能になるのです。根本には村社会に特有の伝統的なものの考え方、――論より証拠であるとか、ステロタイプ化された三船や健さん流の不言実行大衆演劇的イメージ、あるいは某首相の持論である、言葉より実行力!とでも云えるようなものがあります、根底には言葉に対する日本社会特有の蔑視観があるように思います。
 日本国憲法の文体は、明治以降の和漢混交文を基本としてきた日本語が欧化のグローバリゼーションを不可避的に受け入れざるを得なくなった過程で編みだしたリアクション、日本語の文脈で可能となった言説の自律とでも言うような稀有の文体であったことも解ります。この文体を理解するためには少なくとも、言語が受肉化の過程をたどると云う考え方と、生の最中にある自らの実存を自己否定として捉えるキリスト教の考え方を批判的に経由する必要があると個人的には考えています。
 日本国憲法が起草されに至る過程においては様々な研究もなされているようですが、そのなかでキリスト教的なものの考え方が源流としてあり、それを言語の自律と云う構造からは受容するだけの土壌が一部、戦後の日本に芽生えていた、と云うことだけは確かなことのように思われます。キリスト教的なものの考え方の源流とは何で、どこから流れて来たのか、一説によれば、進駐軍の内部にいた憲法起草に関わった専門家の存在が一部言及されていますが詳らかにしません。
 自己否定とは、自己を否定するだけでなく、否定すると云う神の前での実存的な行為によって、自己が自己になる回帰する時間構造を前提にしています。時間性を前提とすることで、公民、公共性、公人、個人と云う言葉の自律が可能になるのです。
 
9、言葉の自律
 言葉の自律と云っても、分かり難いかもしれません。日本も言霊などと云うことを言えた時代はまだよかったのですが、今日のように、言葉をもっぱらコミュニケーション言語として理解するようになると、これはいけません。
 これは言えることなのかどうか自信がないのですが、源氏物語などに代表される大和言葉の文体、これなども明治期の樋口一葉などを境に姿を消しますが、誰が言っていて誰にと話しているのかが不分明なことがあります。と云うよりも、誰と誰ロ云う西洋的な文脈における二元論的な構図は重要なことではなかったのかもしれません。日本文学の最後の代表者とも云える一葉の文学においては、表立ったドラマや演劇的構造は大事ではなくて、その手前で情緒纏綿と儚く消えて行く思いをこそ表現できる文体として、日本古来の大和言葉があった、と云うふうに考えています。
 事例としては適切ではなかったかもしれませんが、文体とは主客の構造の身によって決まるわけでも、もっぱらコミュニケーションや意思伝達、あるいは合意形成の手段としてのみ考えられていたわけではない、と云うことが分かります。同様に意思伝達を超えた、弁明や弁論と云った言語の自律性に関わる問題が等閑視されていることとも関係があるでしょう。
 言葉を、書かれた言語としてだけではなく、音読してみるとよいのですが、美しく響く言語と云うものは、実際には言語の自律と云う考え方と関係があるように思います。古くはペリクレスアテネ演説からバラク・オバマのヒロシ・マスピーチに至るまで、言語の非力さや建前を指摘する前に、言葉の自律と云う言語の構造を虚心に学ぶと云うことの方がこれからは実りある方向だと思います。
 
10、真の実在論とは?
 わたくしたちは、ものがある、あるいはものが見える、と云うことを自明視て論議します。ところでものの見え方とは、客観的に見るとか恣意的な我意に陥って色眼鏡でしかものをみないとか様々に議論されますが、こういうことを云いたいわけではないのです。こういう言語観の前提になっているのは、自然科学で云う何か主観を排した客観的な見方があるかのような前提をそのまま言語の視野に持ち込んだに過ぎないからです。
 ものを見るとは、そのような自然科学を前提としたものの見方のほかに、時間性なり時勢に置いて見る、と云う態度があります。
 先日、さる大学教授の方とお話したときに、理念態としての公私の問題に言及したときに、理想論に過ぎないと指摘を受けました。それでは大衆概念などのような固定概念の上に立脚した政治論などあり得るのですか、と問題提起をしておきました。
 わたくしが甘っちょろい理想論や情緒的な所感を述べているに過ぎないと考える前に、時間性に於いてものを見ると云うトレーニングをするべきだと申し上げたいのです。アリストテレスの哲学には可能態とか潜在態とかの言葉がありますが厳密には忘れてしまいましたが、かかる時間性の理解の上に彼の有名な政治学は築かれていたのだと思います。彼が言わんとしているのは、現代風に言い換えれば、ザッハリッヒにものを見るとはとういうことかを言っているのです。ものごとを「客観的に」見ると云っても、昨今ほど単純ではないと彼は言っているのです。
 例えば、欲望の体系としての市民社会があり市民の一人一人があるとします。この市民と云う概念を、過ぎ去るものとしての過去時制において無意識に見ると云う言語の構造に於いて「大衆」と云う見方が成立するのです。市民が、潜在態あるいは可能態としてみる場合は、他の言語を宛てることになるでしょう。それが往年のプロレタリアートであろうと公民であろうとかまわないのです。こういうことは今更云うまでもなく、高校の公民の教科書に書いてもおかしくない程度の基礎的な知識です。最近は、憚ることなく堂々と、踏まえることなき所感を述べられる学識経験者と称する方が出てきて立て板に水のように臆することなく講壇でもの申される、と云う時代になったと云うことでしょうか。
 要は、言葉なり言語は固有の構造を持ち、時間性と云う考え方を内在させているということです。ついでに言うと、物質とは事物が遠ざかりつつある実在の後姿を表現したものであり、実際には科学は自らの認識の構造を理解しておりません。唯物論が結局、自然科学の後ろ盾を得ながら世界思潮の主流になり得なかった過半の理由は、時間性の理解の仕方にあったと考えています。
 かなり語弊がある表現になりますが、わたくしたちは日本国憲法を一個の文学作品として読むトレーニングが必要だと考えます。わたくしたちは、日本国憲法を読むことで、新しい日本語の文体に出会うことが出来ると思います。