アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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死の統制――漱石と鷗外に見る芸術的抵抗について アリアドネ・アーカイブスより

 
 
 古より権威・権力者は死の統制を支配の本質と理解してきた。それはピラミッドや始皇帝陵に見るような、あからさまな現世権力の誇示と永遠化だけでなく、死者を祀ると云う行為をとおして、内面から共同体を呪縛する、内部権力として機能した。それは内部監視と云う手法を取らずに、自我の内部にもう一つの超自我すなわち内部権力を造成し、管理と云う作用に伴う、権力の外部性や恣意的強制力を隠蔽するのである。
 わが国においての事例では、乃木希典の事件と云うものがある。陸軍大将兼学習院院長乃木希典の際立った貢献、国家主権に対する卓越せる寄与は、主君のために一身をささげるとされる徳川的武士道を、変位転換して、目的格の升目をそこに天皇陛下と書き換えることだった。それで明治天皇崩御をみたとき、彼自身の殉死を思いたった。殉死を意識する過程で、おそらくはそれが積年の念願でもあるかのように偽装した。偽装は殉死と云う儀式の古代風の神話化の過程で乃木の粗雑な脳の中で無意識の形で遂行された。ただ、従来の古典的武士道と違うのは、彼の死が妻の殉死を伴ったことだ。古典的武士道は、戦国時代以来の群雄割拠以降の封建制に成立したものであるから、基本的枠組みとしては、「武士」と云う固有の主格、固有の「資格」の上に成立している。ここでは基本的には女子供は除外されている。乃木が、妻と云う形で追従死を提案したことは、偶然ではなく、封建的武士道以前の、古代国家における殉死の伝統を、近代国家主義的な意匠のなかに復元してみせたことになる。乃木希典夫妻の殉死は、希典に即して考えれば、女々しいのではなく、武士と云う封建的主格の規定を越えて、家族や一族郎党にまで拡大すると云う意味で、総力戦思考の思想的前提を早くもこの時期に提起していたことになる。お国のために、家族郎党全てが奉仕し、集団死を厭わないと云う近代主義的神権国家の理念のための序章を成したのである。
 乃木希典の事件が起きた大正元年、わが国を代表する二人の文豪、夏目漱石森鷗外のとった応答は興味深い。漱石の方から先に書くと、彼は早くも希典の死の二年後、大正三年『こころ』を書いて、国家が要請する死の誘惑に対する動揺を描いてみせた。明治‐大正期を生きた普通の人間が死の誘惑と如何に戦ったかと云う記録である。しかしながら事態が漱石の予想を超えていたのは、結局主人公の先生を死に追いやるのは、国民感情の内部に知らず知らずのうちに醸成されていた、被害‐加害の不可解な共犯的構造であった。不可解な共犯的雰囲気とは、完全に嘘ではないにしても正しすぎる言説によって、相手を亡き者にしてしまう心理機構である。大義や国家のためと云う「正しすぎる」理想と、それに完全には応えることのできない民衆のルサンチマンを利用するシステム、国家的プロジェクトが完成を見ることになる。夏目漱石はかかる自死の過程を、自らに向けられた受難的受苦として描き、Kの反抗的死を対置することで対象化しようとしている。Kの死によって体現されているものは、徳川的古典的武士道よりも一世代前の、鷗外の『阿部一族』などに描かれた戦国の世の武士道である。ここでは武士道における最終的意思表示としての「憤死」が再現されている。お上に対する憤死と云う事態が明治と云う規範国家にとって最大の脅威となり得ることの予感のなかに、漱石の名作『こころ』は筆を措かれている。はたして『こころ』は死に急ぐ青年たちの思想的抵抗の根拠となりえたの得あろうか。ついでに言っておくと、「K」は権威・権力との共犯的関係においてカフカのKと類似しているのである。
 森鴎外の応答はより迅速でり且つ果敢であった。『興津弥五右衛門の遺書』は驚くべきことに乃木希典の事件の五日後、『阿部一族』は二年後に書かれている。後者の方から先に述べる。
 森鴎外の『阿部一族』(大正二年)が明治の精神にとって如何なる意味合いを持っていたかは、先述した漱石との関連で述べたとおりである。鷗外が試みようとしている思想的営為とは、漱石の共犯的主客の曖昧さに満ちた主客の構造を、いま一度戦国の世の武士道の復帰をとおして問題提起し、武士道における主格を再現させてみようとした点であろう。古格の武士道の再現を通して、それを近代的自我風のものに接続してみることだった。
 『興津弥五右衛門の遺書』(明治四十五年)は、「正しすぎる」言説を、権力者の思惑をも超えて過剰にも演出するすることをもって、ある種の――褒め殺し、と云う手法を使って、精神の自律性への言及を行った事例である。正しすぎる言説をそれを忠実になぞりながら完璧に演じると、戯画となりイロニーとなる。森鷗外による言語による抵抗はここまでであった(注)。イロニーの道は受動的抵抗の道となり、受動的抵抗は遂には自らに禁じ手としてきた、個人の死と意思を据えての反感と反抗の道となる。――
 
死ハ一切ヲ打チ切ル重大事
件ナリ 奈何ナル官憲威力ト
雖 此ニ反抗スル事ヲ得スト信ス
余ハ石見人 森 林太郎トシテ
死セント欲ス 
宮内省陸軍皆
縁故アレドモ 生死別ルヽ瞬間
アラユル外形的取扱ヒヲ辭ス
森 林太郎トシテ死セントス
(鷗外の遺言碑より)
 
(注) これ以降の鷗外の文学的営為は抵抗の自律的根拠を失い、『じいさんばあさん』、『山椒大夫』、そして『渋江抽斎』にみるように、美しく生きた人々への追慕と詠嘆と憧憬の書となる。