アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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岡本かの子『上田秋成の晩年』を読んで アリアドネ・アーカイブスより

 
 
 本書は南禅寺の近く岡崎に暮らした最晩年の上田秋成を描いた一篇である。全編、秋成の恨み節、悔み節であるかに見えるが、一読し終えて抱く感情は、清貧と文雅に明け暮らした理想とも云える生活の一端で、仮に孤独な暮らしであったとしても、最後は弟子たちや知己の愛情を受け入れたように、本人の僻目にも関わらず、人に愛されたものの一生である、と思われる。書かれたことはその通りだとしても、また実際に秋成自身がそう感じていたにせよ、当時江戸期の文人像には、世の中を斜めに見て清貧に暮らすと云う生き方のモデル、理想像があったような気がして、半分ほどは差し引いて読まなければならないだろう。
 この書を読んで得た秋成像の印象を箇条書きに書くとすれば、以下の通り。
 秋成と云う人は、実に多彩な才能の持ち主であったことである。国学者や雨月などの読み本の作者であったことは一部に過ぎない。その一部ですらも、どの分野に於いても卓越した成果が出せたと思う。しかし本人によると、生涯に於いてそのいずれにも全身を打ち込んでやると云う条件が欠けていた。一芸に通じると云う幸運をもし運命が彼に与えていたならばと、惜しまれる。秋成の気持ちはよく分かる。しかし雨月を一篇残せば十分ではなにのか。欲の深い人ではある。
 本性を伸ばせなかった無念さは理解できる。彼の生涯の本性を妨げたもの、ひとつには家業としての商いであり、二番目には医業との関わりである。前者は内容の空疎さに於いて、後者は流行ったけれども医術とは今も昔も体力勝負の商いであるから、彼の脆弱な肉体が付いていけなかった。彼は彼を取り巻く人生と彼自身の身体に生涯折り合うことができなかったのである。
 しかし幼き頃両親に死別し、その後は二人の継母に育てられ、長じて後は一人の伴侶を得、最後は義母も引き取って世話をし、何よりもかによりも、彼らの誰よりも長生きして生涯を終える、その生活欲の旺盛さは並大抵のものとは思えない。惜しむらくは、若気の遊蕩の生活と生活の浮き沈みが安定した生活感が彼に育たつことをえず、よって子宝に恵まれなかったことだろう。とはいえ、二人の継母と、連れあいの妻と義母との四人の女の死を見届けたのであるから、立派としか言いようがない。明治以降の東奔西走の旦那方や自然主義系の貧乏文士とは心がけが違うようである。
 孤高の文人や卓越した文学者にありがちの驕慢さがまるでなくて、庶民の暮らしになずむ暖かい気持ちを最後まで失わなかったひとのようである。それは一篇のなかに仄見える、近所の子供たちにかけた交情によっても彷彿と感じ取ることができる。子宝を得なかったこと、それがもしかしたら彼の悔いの根底にあったのではないのか。それは誰も言わないことだが、死別して後のわが妻を思いやった秋成の言動を綴る感慨深い、岡本かの子の含蓄ある筆致に明らかである。一生自分のような貧困に付きき合わせる本能的な生活の不能者、併せて気位ばかりは高い、すねて僻みっぽい偏屈者に仕えて悔いも恨みも一言も言わず、忍耐強い女であることを良いことに、不生女として生涯を終わらせた悔いが揺曳していて憐れである。 
 ともあれ髪を降ろして尼となった後の彼女は一変する。つまり秋成の妻として生きて来た役割存在から解放されるのである。そんな吹っ切れたような我妻の変わりようを傍目に見ながら秋成は複雑な思いだった。それは燃え尽きようとする生涯の終わりに人生の過不足を追認して補うようなある種の補償作用であるようにも見えた。自分にはそうした生き方は許されないであろうけれども、妻が普通の人間として死んで逝くのを秋成はある種の満足感のもって見送った。
 
 上田秋成は、よき家庭人として良き義父母と良き妻を得た。良き友人と良き知己と良き師匠にも恵まれないわけではなかった。にもかかわらず彼が人間関係を築けなかったのは、恵まれて卓越した彼の才能と人柄ゆえにであった。彼が独学を何よりも頼りとする風の言辞は、生きた同時代人よりも書物に現れた過去の偉大な書物との方の交際を望んだからである。そんな自分だけを頼りにする彼の姿勢は自然と周囲を遠ざけた。しかし周囲の方では彼に対する尊敬の念だけは失うことはなかった。にもかかわらず、愛された彼は幸せだったのだと思う。
 
 岡本の筆で描かれた上田秋成最晩年の肖像、彼が暮らした洛東は岡崎の辺り、そこからは南禅寺知恩院の晩鐘が聴こえたという。しじまに寺院の格子戸を開け閉めする音も漏れつたえ聴こえたという。京都の土地柄のゆえ、狭霧と庭木の植え込みに置かれた露草の人知れぬ輝き、軒を伝う雨だれと朝日に輝く東山に続く森のつらなり、そして無聊を慰めんと辺りをさぶらえば、しな垂れる柳と石橋、白川の潺かとも思える清き流れ、京都を死に場所に選んだ秋成の真意は、しかしわからない。
 岡崎の無鄰菴や瓢亭があるあたり、むかしから良く歩いたところである。若い頃のわたくしは歩き疲れていき暮れると知恩院の高台に登って西山の日没を拝んだものである。前途に希望の見出せない時代であった。神も仏も信じなかった秋成、直く生きることを理想としたにもかかわらず、僻事として排撃する宣長の国風ぶりを『春雨』は「海賊」のなかで揶揄してみせた秋成、不自然に逆らうことをまであえて不自然と捉えて、結果的には不条理を良しとする傾向すらあった宣長の不自然さが持つ権威主義を首肯できない上田秋成の生き方にわたくしは共感する。心弱きままに生きて何が悪い。
 『春雨』の最後の挿話「樊噲(はんかい)にというものがあるが、出来栄えは別として、悪態非道の限りを尽くした男が人生の諸相を経験して次第に人間になっていく話である。作家の石川淳はその雨月とはあまりに異なった文体に近代の散文の萌芽をみようとする。美文ではなく、こころに想うことの葉が思いのままに湧き出るようにいで来るもの、それが新しい文学なのであるとも。
 思えば上田秋成と云う人は、わたくしたちが近代と読んでいる時代のほんの近くまで来ていたのだった、それも西洋文明の力をからずに独力で!そうして石川の言うように文体のなかに体現された彼の「近代」なり「散文」の精神は後継者を得ることなく、文学史のなかに埋もれることになったのである。
 
 最後に『上田秋成の晩年』を欠いた岡本かの子に一言。評伝とも短編小説とも思える手法を使って、かくも生き生きと上田秋成の生涯を簡潔に描き得たかの子の晩年とはどのようなものだったのであろうか。
 
 岡本かの子とは未だに縁をみていない。過年、国木田独歩を偲んで武蔵は溝口に散策を試みたおりに、多摩川河畔にかの子の記念碑があった。そのときは見逃すように通り過ぎたものだが、これを機会に岡本かの子を憶えておくことにしたい。
 
「としとしにわが悲しみは深くしていよよ華やぐいのちなりけり」(かの子)
 
 これは絶唱、と云ってもいいほどのものですね。抒情の憐れさががかの子の気迫と意気の高揚のさなかで掉さして魂が凍れるほどの輝きを、ある種の晴れがましさのなかに生気が息づいている、とみえます。
 これほどの達人にして、秋成の晩年の姿とよく拮抗しえたのでしょう。
 
 老境に至る心境としては、清冽で潔い方だったのですね。
 二子玉川の線路を刻む振動音が、長い長い鉄橋の径間を通過するたびごとに、今までとは異なった心境で見遣る視線が多摩川の大観を移ろい渡ることになるのでしょうか、独歩、かの子と、所縁の地を。
 
 それから、「上田秋声?」から徳田秋声にも話題が及び、これが案外無関係とも思えないのは、川端康成西鶴以降の時間を一跨ぎする読み本系の文学者として秋声の名を挙げていた点である。秋声は自然主義文学系の作家として知られているが、元々は尾崎紅葉門下生としてスタートしている。そこには泉鏡花もいれば樋口一葉もいた。鷗外、露伴もいれば、上田敏も北村透谷もいた。まだまだやれることには限りがなくて、本当に明治期は濃度の濃い時代ではあった、とこちらの不勉強を嘆息するばかりである。