アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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デュマ『王妃マルゴ』とラファイエット夫人『クレーヴの奥方』 アリアドネ・アーカイブスより

 

 
 きちんと読んではいないけれども、三銃士の物語やモンテクリスト伯については知っているつもりでいる。『王妃マルゴ』はそれらのフィクションとは違うけれども、歴史を学びたいと云う思いで、学術的な歴史書よりも手軽に読めるデュマの同書を選んだ。すでに先回紹介した鹿島茂氏の訳である。
 私のフランス近世、近代史に関する知識は僅かで、それによってホイジンガの『中世の秋』のブルゴーニュを別とすれば、例によって、ジャンヌ・ダルクの物語(1412~1431)、フランソワ1世(1494~1547)とフランスルネサンスの時代、アンリ二世(1519~1559)とカトリーヌ・ド・メディシス(1519~1589)の時代で、ラファイエット夫人(1634~1693)の『クレーヴの奥方』と云う優れた歴史小説?――通常はフランス恋愛心理小説の祖と云われているが、私はこの見解を取らない――に描かれている。
 デュマの『王妃マルゴ』は、同じ時代を少しずらしてカトリーヌ・メディシスとその子供たちの骨肉相食む物語として展開している。勿論、歴史小説とは云ってもフィクションであり、歴史ではないことを十分踏まえての思いではあるが、とりあえずは未知の世界への案内として読んでみた。
 主要な登場人物はカトリーヌ・ド・メディシスとその子供たち、シャルル9世アンジュ―公アンリ、アランソン公フランソワ、そして主人公のマルグリット・ド・ヴァロワ王妃マルゴ)、そしてもう一人の主人公とも云うべきナヴァール王(アンリ・ド・ナヴァール)である。狂言回しとして二人の好人物ラ・モールとココナスと云う二人の青年である。描かれた時代と描くアレクサンドル・デュマ(1802~1870)の時代を区別するならば、この狂言回したちに後者が生きた時代の価値観、世界観、人生観は投影されていると考えてよいだろう。
 私のフランス史に対する知識は小さいが、出来るだけ想像力を逞しくして考えてみよう。
 第一にジャンヌ・ダルクが生きた時代とは、フランスが大きく二つに分かれていた時代で、北東部がブルゴーニュ侯国の名で語られていたことは先述のホイジンガの本に詳しい。ホイジンガはここからフランス文化とは独自なベルギー、オランダの所謂ベネルクス三国(もう一つはルクセンブルグ)の歴史的、文化史的起源を見ようとするのだが、同時にイギリスとの間に闘われた百年戦争ジャンヌダルク愛国主義の物語にしても、ブルターニュブリテンの語感や『トリスタンとイゾルデの物語』の背景にも見るように、単純にイギリスによる侵略戦争と考えるようなものではなく、まだ国民国家としての意識が確立以前の、小国分立状態――フランス史に限れば三国鼎立状態――であったのではなかろうか。つまり北フランスはフランスでもイギリスでもなかったのではなかろうか。ジャンヌの登場は、その悲劇的生涯と一連の名誉回復をも含めて、国民国家としてのフランスの意識の目覚めを語っているのではあるまいか。
 次のフランソワ一世の時代は、フランスの意識に目覚めた王が、権威づけのためにイタリアから文化人を呼び寄せて――ダヴィンチもそのひとり――フランスにルネサンスの時代を開花させたもの、と理解できる。つまり背景に政治的な安定があり、文化による権威づけが図られた時代とみることができる。
 フランソワの子のアンリ二世の時代は、かかる政治的、文化的安定を背景にまるで王朝絵巻のように『クレーヴの奥方』によって、貞操であるとか愛であるとかの観念が語られるような時代であった。つまり最早フランスは野蛮人の時代ではないのである。イギリスのヘンリー8世(1491~1547)の時代では、食事を手づかみで食べる習慣が公然と行われていたことが知られている。)
 ところが政治、文化ともに成熟した社会として描かれていた『クレーヴの奥方』の世界も、デュマの本書を読むとなかなかに安定と云うにはほど遠いものがあったようだ。フランソア一世に始まるヴァロア朝と呼ばれていた時代も、その後アンリ二世、その子のシャルル五世、アンリ三世、のあと、辺境の位置にあったナヴァール王のアンリ・ド・ナヴァールに奪われてしまうのであるから。
 デュマの本書は、カトリーヌと彼女の子供たちが、如何にしてヴァロワ王朝を守るために、ナヴァール王と争いを続けたか、またナヴァール王の立場から見ると終始劣勢に立っていた彼が如何にして運命の偶然と僥倖にも助けられて別の王朝の創設に至るかと云う物語で、王妃マルゴとは、カトリーヌの娘が政略結婚によりナヴァール王の王妃となり、彼女の華々しい恋愛遍歴をも含めて波乱万丈の政治の世界を生きたか、と云う物語である。
 私は複雑な政治の世界は別としても、『クレーヴの奥方』の世界とは反して、マルゴとその他の貴族の夫人たちにまるで貞操の概念がないことに驚いた。その驚きはひたすら忍従してあるべき封建的な女性の概念がこの時代においてはまるでなかったかのように読める、と云う点である。もちろん19世紀の文学者であるデュマはしっかりと貞操と純愛の観念を基にこの物語世界を展開している。しかし政略結婚とは、恋愛の世界の観念でよりは政治的用語に近いものがあったのではなかろううか。政略結婚とは、女性がものとして、手段として売買される世界である。商取引は一時的のものであり、政略結婚と云う世界から出たり入ったりしなければならない。王妃マルゴが淫乱であるとみられたのは、政治的世界において権力を持たない女性が自らの身の保全を考えた場合に取らざるを得ない手段であったのではなかろうか、全てとは言わないまでも。なんとなれば政略結婚の立場に置かれた女性とは、嫁ぎ先に於いては異分子であると同時にもはや実家とも利害を共通することができない、どこにも見方を得ることができない天涯孤独とも云うべき立場であったのだから。つまり王妃マルゴの自由恋愛とも、貞操観念の否定とも見える一連の行動はパトロネージの技術であり、大きく言えば外交術なのであったのではなかろうか。そうした意識をもって王妃マルゴの世界を物語ればまた別の世界が開けるのではなかろうか。
 ところでほぼ同じ時代を描いた本書とラファイエット夫人の『クレーヴの奥方』の大きな違いは、本書ではフランスと云う国がまだ野蛮国であるのに対して、ラファイエット夫人の同書は現代社会と同等かあるいはそれを凌駕するほどの文明性?を示している点だろう。男本位の封建的な社会において、女性は身の保全を保つために王妃マルゴのパトロネージの技術や外交術をあみだしてもよいし、クレーブの奥方ラファイエット夫人のように貞操の観念を編み出して男性社会の論理に対抗することも出来たのである。
 
(付記)
 昨今の社会への女性進出とわが国のグローバル化を視野に入れた国策はいっけん結構なことのようにかんぜられるが、あくまで男社会の論理を前提し、その価値観を男性以上に体現した女性たちの評価と社会進出と捉えれば道遠きものが感ぜられる(ウーマンリブとその変種など)。
 男社会の論理を男以上に体現させた女たちとは何だろうか。イデオロギーのモンスター化とも云える昨今の現象は、権利としては男性と同等と女としての阿りを主張し、義務としては女性としての退路を残すと云う奇妙な人種の新種の在り方を示さなければよいのだが。
 一般に女性は生活の糧を得るにおいても不利であり、且つ保育と家事に縛り付けられがちである。権威や権力とやや遠い位置にあるために保守化するのはやむを得ないと言える。他方在来型の女性は、自らを弱者の立場に置くことで男性には見えない男社会の論理が透視するように見えると云う意味では、心理的には革新的でもありえた。保守性と革新性、この左右の振幅の何れに拠り所をおくかでこれまでの女性論は語られてきた。これからの女性論はどうなるのだろう。