アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

アリアドネ会修道院附属図書館・アネックス一号館 本館はこちら→ https://ameblo.jp/03200516-0813  検索はhttps://www.yahoo.co.jp/が良好です。

日本の戦後、カントとヘーゲルの間ーー長谷川宏『ヘーゲルの歴史意識』1974年を読んで アリアドネ・アーカイブスより

 
 
 68年の東大闘争を潜る抜ける過程で書かれたと云う長谷川の同書はいま読んでも新鮮である。
 東大‐日大闘争との関係で云えば、主体的宗教と客体的宗教の違いを述べた場面、――客体的宗教とは既成性としてのキリスト教カトリックを言うのであるが、反対陣営にあるプロテスタントとの違いは問わず、両者が当初は瑞々しい情感の霊感のなかで成立した信仰が、いかにして実定性として、既成性として形骸化されたものとなっていくのか。これは当初、党派に寄らない、ノンセクトラジカルとしてスタートした筈の全共闘運動が、既成新左翼系の党派性の影に吸収されていった一連の経緯を彷彿とさせる。
 
 主体的宗教と客体的宗教の違いは、またカントとヘーゲルの違いでもある。カントの宗教観は道徳宗教であって、己の普遍的な格律を信ずる如く、最終選択権は主体的自己にある。自己に対する揺らぐことのない根拠としての近代的自我と云う前提がある。東大‐日大闘争においては、かかる最終的選択権を有する主体的自我の立場から、大学解体や自己否定の論理が語られたのである。
 ヘーゲルは、カントの道徳的な概念に時間と云う要素を持ち込む。主体的宗教が如何にして時の淘汰作用を受けて客体的宗教と云う名の実定性になり、既成性にまで頽落するのか、と云うのが彼のモチーフである。カントとヘーゲルの大きな違いは、わたくしたちが思考やあらゆるものを考える場合の前提になっている近代的な自我と云うものをヘーゲルは丸ごと信用しているわけではない、と云う点である。
 ここから統制を欠いたものとしての近代的自我の自閉とテロリズムが現代的な主題として語られる。もしかしてルソー的な自由の概念は、国家や組織と云った共同性とは根本的に背馳するものがあるのではなかろうか。
 
 ここからカントとヘーゲルでは違った結論が見出される。カントはヘーゲルが提起した実定性の問題を、言語の公共性の問題として解こうとする。これには彼の人格に対する全幅の信頼がある。具体性の事例としては平和憲法や国連などが可能的範囲にあると考えられるが、カント死して二百年、以降の歴史的経緯を鑑みるに、人類が彼が楽観したほど有能であったかどうかは疑問なしとしない。
 ヘーゲルの近代的な自我や自由の問題についての見解はカントほど楽観的ではない。近代的な自我は個的な自我としても自己欺瞞を免れないし、衆合的自我としては、現代史に見るような愚かさの次元に達する。人類は理性的存在として絶対知に到達する過程であると云う普段の彼の言い分にもかかわらず、20世紀の我々からみると、フロイドのタナトスと云う概念を適用する方が妥当であると云う局面にしばしば遭遇する。
 ヘーゲルには、自由に対する不信がある。それが彼をしばしば国家主義者と思わせてきたものである。カントの主張する公共的言説や言語の公共性などは、夢見る道徳化の夢物語に過ぎず、国家や市民社会の法制度のなかで救済される面がある、と云うのが彼のレアリズムである。
 
 東大‐日大闘争の掉尾を飾る象徴性は、青年たちではなく三島由紀夫だと思っている。主体性の極まるところ、結果や効果を度外視して、動機の純粋性の純化に奉げられた死として、彼の死は戦後的な意味がある。妥当な結末の付け方か否かは別としても、美学的な形式を掉尾に輝く精華として飾ったことは間違いのないことだろう。
 ノンセクトラジカルの歴史としては、彼の暴力主義的な行為の象徴性によって、公共的言語は根絶やしに閉ざ された。青年たちは流竄し離散する。パルチザン型後退作戦を論理化すると自称した賢しらのもの達もいたが、殆どが風化するか自滅した。
 ヘーゲル的な解決法は、大学の日常化路線として帰結する。産学共同、軍学共同が当たり前となる。産学共同、軍学共同の関与の度合いに寄って、大学補助金も勘案される。全共闘が主張した、大学の自治の解体やアカデミズムの崩壊は、皮肉な形で実現したのである。
 ヘーゲルエピゴーネンたちは満足しただろうか。
 
 カントが提起した問題にも、ヘーゲルが継続しつつ苦吟して考えた解決法にも行き得ずに、まるで時が止まったかのように、両者の間で途方に行き暮れてひとり佇立する。